朝鮮出兵のため名護屋へ向かう秀吉が作らせた「一里塚」

■世界一の金貨をつくった秀吉

「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て、そのうえ高麗・琉球・南蛮の綾羅錦繍、金襴、錦紗、ありとあらゆる唐土、天竺の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなえたてまつり、まことに宝の山を積むに似たり」というのは、『信長公記』の作者でもある太田牛一が書いた「太閤さま軍記のうち」の一節でございます。

秀吉の時代は日本が突然、豊かになった時代でございます。その鍵になったのが、明国からだけでなく、南蛮からも技術が入ってまいりましたので、鉱山の開発や製錬の技術が向上し、日本が世界有数の金銀の産出国になったことです。

▲佐渡金山 出典:PIXTA

秀吉は、京の金細工師である後藤四郎兵衛に言いつけて、天正大判という金貨をつくらせました。縦5寸6分(約17センチ)、横3寸3分(約10センチ)、重さ44匁(約165グラム)という、秀吉らしい豪華でびっくりするほど大きいものでした。これを13万5千枚発行したのです。

なんでも、21世紀になって、ウィーン金貨ハーモニーというものが出るまでは、世界一だったと言うのでたいしたものです。秀吉が私にも何枚もくれたことは言うまでもありませんが、へそくりというには、ちょっと大きすぎました。

この時代、鉄砲が典型ですが、武器や機械の技術も大進歩いたしました。南蛮人たちがやってきたとき、明国は世界有数の技術大国でございますから、大きな差は感じなかったのですが、産業技術が遅れていた日本にとっては、何世紀分もの遅れを取り戻す大チャンスだったのです。

ですから、秀吉が南蛮人たちに協力させて大陸制覇を目指したとか、南蛮人でも日本人を切支丹にして、それを先兵に中国を制圧してキリスト教を広めようとしたのも、あながち見当外れの夢想でもなかったのでございます。

鶴松が死んだことで、秀吉が悲しみを紛らわすために、朝鮮への出兵を決めたという人がいます。しかし、それはまったく間違いです。

対外進出は、九州を平定したときから決まっていた話ですので、関東の北条氏政さまが上洛を渋られ、結局は小田原征伐で1年間を浪費することになりました。また、東北でも大崎の乱とか、九戸の乱がございました。

そして、大和大納言秀長や鶴松の死という不幸もあって、秀次を後継者にした新しい体制をつくらなければなりませんでした。

こうしたことは、すべて海外進出が遅れたほうの理由で、出兵をした理由ではありませんから、鶴松の死が出兵の原因であるなどありえないのです。

また、秀吉ができもしないことを、誇大妄想で実行に移したということもありません。この時代は、ヨーロッパでもウエストファリア体制※1というものも、まだできていませんから、国家の独立という考え方も確立しておらず、どこの国も領地を拡げたり、周辺国を従属させたりしておりました。

アジアでは、明国が冊封体制※2というものをつくったと話す方が、昭和の終わりから平成・令和の日本にはおられるそうですが、中国や韓国にはそんな言葉すらないそうです(冊封はありますが、それほど使用頻度は高くないし、それを「体制」と呼ぶことは日本の歴史学者の造語のようです)。

たしかに明国は、周辺国の国王を冊封するということにして、その場合だけ明国が貢ぎ物に対する返礼をする、という形で貿易をするという方針でした。それは、明国がそういう方針だったというだけで、それを周辺の国が従うべき国際秩序だと納得していたわけでありませんし、非公式な貿易も弾圧を受けながらも行われておりました。

ポルトガルは、1517年から貿易を認められたのですが、紛争があってすぐに取り消されました。その後、1557年に倭寇討伐に協力したとして、マカオでの居留と貿易を認められるようになったと宣教師たちは言っていましたが、真偽は不明です。いずれにせよ、マカオがポルトガルの植民地になったのは、300年も先の1887年になってからです。

▲マカオにある聖パウロ天主堂跡 出典:Richie Chan / PIXTA

半島では、明国に対して、ある程度の独立を維持しようとした高麗が、明国に従うべきだという李氏朝鮮に取って代わられていました。一方、モンゴル人たちは、元の復興を狙って万里の長城の外側で活動していました。

日本との関係でも、建前としては室町幕府が勘合貿易をしていたのですが、実際には幕府はほとんど関与せず、大内氏と博多商人たちが幕府の名前を使ってやっていただけですし、明もそれを知っていたのです。

ところが、大内義隆が陶晴賢に殺され傀儡政権を建てたのちは、明は細々として続けていた勘合貿易を停止し、また、海禁政策を緩和して外国船の寄港をある程度は認めたのに、倭寇の根拠地だというので日本船の寄港は許しませんでした。

ですので、日明貿易は、琉球や朝鮮を通すとか、両国の船がどこかで出会うとか、南蛮船に依存するとかに限定されていました。

■モンゴル族の英雄アルタンの勢い

▲チンギスハンの像 出典:Anton / PIXTA

ある時期に、モンゴルからはアルタン(在位:1551年~1582年)※3という英雄が出ました。チンギスハンという方が亡くなったあと、そのお墓は秘密にされましたが、かわりに霊廟が設けられ、それが内蒙古の黄河湾曲部にあったので、この地方はオルドスと呼ばれるようになりました。

この部族の王のダヤンは、モンゴル族の統一を回復し(1487年)、その孫アルタンは北京を包囲したり、山西省で20万人の人々を殺したりしました。

そこで明とモンゴル両者の話し合いがされ、明はアルタンを順義王(明の官職名)に封じるという形で名を取り、アルタンは有利な交易など多くの特権を手にしました(1571年)。現代中国では、アルタンが明に服従したので内蒙古は中国のものだといっておりますが、アルタンは北京占領はとりあえず棚上げにして、実をとっただけでございます。※4

これを根拠に、現代中国ではモンゴルを中国の支配下に置いたような解釈をしていますが、それは中国側の天動説的解釈で、アルタンに明が屈したのが実情でしたし、中国から一度でも冊封されたら、中国の領土にされてしまうのではたまったものではありません。

しかもアルタンは、広い意味での満洲西部(現在は内蒙古自治区)にあったチャハル部のハーン(皇帝)にも、名目上は仕えていたのです。そして、このハーンが元朝以来の中国皇帝としての印璽は持ち続けており、のちに、ヌルハチの子のホンタイジが、これを手に入れて清朝の皇帝を名乗るのでございます。

さらにアルタンは、チベットのダライラマとも世俗と宗教の世界での権威を対等に認め合っており、それを中国はチベットを自国の領土だとする根拠にしている、というややこしさです。

このアルタンという人の話を長々としたのは、秀吉との和平交渉のときに、明側はひとつの前例として常にこれが意識にありましたし、日本側でも小西行長などは、秀吉には説明していなかったかもしれませんが、そのあたりを知っていたのです。

いずれにしても、大事なのは、現代の日本の東洋史学者といわれる人たちが言うような、きちんとした東洋の国際秩序があったなどということは、私たちの時代にはなかったのでございます。

秀吉も、自分や帝の権威が広く周辺国から認められることは目指していましたが、最終ゴールがこうでなくてはならない、と決めていたわけではないのです。現代の企業が、海外進出するときに、将来は必ずこうだと決めてしまうことがないのと同じです。

どうも、国内でも現代の方々は、全国の武将が瀬田の唐橋に旗指物を掲げて、天下に号令することを夢見ていたとか仰いますが、そんなことを思いついたのは信長さまくらいですし、その信長さまでも細かい将来計画などなかったのと同じでございます。

■攻撃重視の渡海基地・名護屋城を築く

天下統一が近づいた頃から、秀吉に限らず西日本の人たちが考えたのは、倭寇(わこう)を取り締まるから、明との貿易を正常化することです。大内氏がやっていた勘合貿易の復活、日本船の寄港を認めるなど方法はいろいろあったわけでございますが、明がそれに応じる気配はありませんでした。

このとき、明が遣唐使の時代の唐のように建前をうるさく言わず、統一国家を樹立した秀吉の政権との友好関係を大事にしたほうが、倭寇も抑えられるし、南蛮人に対しても手を組んで対処できるし、通商上の利益も得られるという賢い判断をしたら、なんの問題もなかったわけですが、そうではありませんでした。

一方、中国周辺の諸民族がどこでもそうだったように、秀吉も強い政権ができたので、周辺国家などに自分たちの権威を認めるように要求いたしました。それは、朝鮮王国でも、女真族や対馬の宗氏に対して権威を認めさせようとやってきたことで、当時の東アジアで当たり前のことでございました。

秀吉は、朝鮮や琉球などの国王に、北条氏政さまのときと同じように上洛を求め、ルソンやゴアなどの南蛮人にも同様に入貢を要求し、明を征服するときは協力するように言ったわけです。台湾にも同じようにしようと思って、使節を派遣いたしましたが、国王らしい者もいなかったで、そのまま帰ってまいりました。

朝鮮には、もともと窓口になっていた対馬の宗さまが、いつものように二枚舌を使って、朝鮮国王に代理の通信使を天正18年(1590年)に派遣させ、11月に聚楽第で天下統一の祝いを言上させて、とりあえずしのぎました。

秀吉は、唐入りの先導を朝鮮国王に命じましたが、このときに閣下という目下に使う称号を、国王に使ったので朝鮮側は抗議しましたが押し切りました。

そして、宗氏はこれを「仮途入明」、つまり遠征軍の通過の便宜を図る要求にすり替えて交渉しました。

驚いた朝鮮側ですが、使節のなかでも、秀吉が本気とみるか、聞き流しておけばいいかで意見が分かれました。漢城の宮廷でも議論がありましたが、あまり厳重な備えはしなかったようです。

そして、秀吉は天正19年(1591)の10月から、肥前の名護屋に城を築いて、渡海の基地とすることを命じました。ここは、現在では佐賀県の唐津市ですが、イカ料理がおいしい呼子とともに、東松浦半島にあります。九州本島から壱岐や対馬、さらには朝鮮半島へ最短の場所でございます。

▲名護屋城跡 出典:kattyan / PIXTA

秀吉は、その先端の小さな半島の中央に城を築き、その周囲に大名たちに陣地を設けさせました。そこに集まった軍勢は30万ともいわれ、常時、10万人くらいが滞在しました。

五層の天守閣などの姿は、屏風絵で事細かな描写が残っております。攻撃基地ですから、防御はあまり考えておらず、本格的な堀などはございません。本丸に山里丸など小さな曲輪がいくつか付いているだけです。ただ、その周囲には、博覧会のパビリオンのように、各大名の陣地が約120ヵ所も点在していました。

全国から大名たちが続々と九州へ向かいましたが、関門海峡で船が足りずに渋滞するといったこともあったそうです。秀吉は関白の座を秀次へ12月に譲って、3月26日に聚楽第を出陣いたしましたが、恐れ多くも帝が激励のためにお出ましになって、出陣に花を添えてくださいました。

このときに、小田原出陣のときの吉例に倣うと私に弁明して、茶々(淀殿)と竜子(京極)の二人を連れていきました。私は義母のなかの面倒もありますので京に残ったのですが、さすがに悪いと思ったのか、摂津に1万石の領地を化粧料として小遣いにくれました。

■民衆によって失われた漢城にあった文化財

秀吉は陸路で姫路まで行き、そこから船で岡山、広島などにも寄り道いたしました。広島では築城中の広島城を視察しました。このときに、途中の街道に一里ごとに標しをつくることを命じました。これが「一里塚」の始まりでございます。

そして、秀吉が広島に滞在していた4月12日、対馬に布陣していた小西行長と宗義智が率いる1万8千の軍勢は、700艘の軍船に分譲して朝鮮に渡海し、釜山城を攻めて翌日には陥落させ、破竹の勢いで進軍いたしました。

秀吉は4月25日に名護屋城に入るのですが、5月3日には小西行長や加藤清正らが、漢城(現ソウル 大韓民国の首都)に入城しました。ただし、その2日前に国王は首都を放棄して平壌に逃げたあとでした。いわゆる文禄の役でございます。

この快進撃のときの軍勢が、乱暴なことをして民衆に嫌われたという人がいますが、嘘でしょう。秀吉からも、風習の違いに気をつけろと厳しく言い渡していましたし、民衆からはあたかも解放軍のように迎えられたのです。

逆に、朝鮮側の官僚や軍人は、ろくに戦わずに逃げ去り隠れた者も多かったのです。そして、支配者たちが逃げた漢城では、民衆が略奪を働きました。財宝が奪われたのはもちろんですが、掌隷院という戸籍を管理する役所が、身分が低くて差別されていた人たちなどの手によって焼かれたりもしました。

そして、日本軍が入城する前に、景福宮・昌徳宮・昌慶宮など全て焼かれてしまい、大事な記録なども失われました。

ここに限らず、朝鮮の文化財の多くが「文禄・慶長の役のときに失われた」のは確かですが、「日本軍の狼藉で失われた」ことはそれほどありません。

秀吉のもとに、漢城を落とした知らせが入ったのは、5月16日のことでした。そして、そのことで気が大きくなった秀吉は、明国を征服したあとの構想などを、聚楽第の秀次に知らせてきました。

なんでも、後陽成天皇を唐の都(北京)に移し, 都廻り10ヶ国を進上する。公家衆にも知行を与える、中国の関白に秀次をつけ、都廻り100ヶ国を与える.

日本の帝位は、若宮(皇子·良仁親王)か八条殿(皇弟·智仁親王)が継承し、その関白に羽柴秀保か宇喜多秀家を充てる。

朝鮮の支配は、羽柴秀勝か宇喜多秀家に任せ、九州には小早川秀秋を置く。秀吉は寧波に住んで天竺などの征服の指揮を執る、とかいう調子のいいものでした。

あんまり簡単に朝鮮の都を占領できたので、すっかりいい気になったのです。

▲「ちょっと、いい気になりすぎですよ!」 イラスト:ウッケツハルコ

ここに書いてある若宮は、帝の第一皇子で、母親は中山大納言親綱の娘でございました。将来の帝だと皆が思っていたのですが、女御で事実上の正夫人だった近衛前子(私たちの猶子でした)が、1596年になって第三皇子の政仁親王を出産されたので、帝はそちらを帝にしたくなり、中継ぎとして弟で私たちの猶子だったこともある八条殿に譲位しようとされました。桂離宮を建てた方でございます。

結局、帝は譲位されずに慶長16年(1611年)までご在位になり、三宮の政仁親王に譲られました。これが後水尾天皇です。

宇喜多秀家の妻の豪姫は、前田利家さまと「まつ」さまの娘ですが、私たちが養女にもらい大事に育てました。

秀吉はとてもこの子が気に入り、「男にて候はば、関白を持たせ申すべきに、女房にて候まま、是非なく候」「太閤秘蔵の子にて候まま、ね(祢)より上の官に致したく候」「位は太閤位ほどにいたし申すべく候」などと、この頃に名護屋から私に書き送ってきたほどです。

※1 ウエストファリア体制とは「ドイツ30年戦争」(1618~1648年)という宗教戦争を終わらせるために結ばれた条約にちなむもので、そこに盛られた原則が、近代国際法の枠組みを確立したものとされてきたからだ。(拙著「日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解!」(さくら舎)より)

※2 「冊封体制」なるものが、東アジア世界の国際法原則だと言いだしたのは、東京大学の西嶋定生であって、日本の歴史学会でだけ通用するガラパゴス史観である。中国の歴史教科書にも登場しない。

※3 アルタン・ハーン(1507年又は1508年~1582年)は、モンゴル帝国(北元)を支配したハーン。北京を包囲したこともあるが、やがて冊封を受け交易も保証させた。一方、チャハル部のハーンの権威も認めた。

※4 欧州でも、たとえば、神聖ローマ帝国皇帝のもとでスウェーデン王がホルシュタイン公になったり、フランス王のもとで英国王がノルマンディー公になったりしたが、それでスウェーデン王や英国王が、皇帝やフランス王の家臣になったとか、スウェーデンやイングランドが、ドイツやフランスの領土になったのでもない。

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