地震、焼失、廃城…何度も建て替えられた伏見城

■大地震に見舞われるも伏見城が完成

伏見の町は、京都から奈良に向かって下っていく街道が、宇治川を渡るところにございます。現在、宇治川の南には広い平野に田畑や住宅がありますが、昭和の初めまでは巨椋池(おぐらいけ)という大きな湖でした。

観月橋という、京都と奈良を結ぶ国道24号線の橋の東側に、標高40メートルほどの指月山という丘があって、平安時代から月見の名所として知られておりました。

▲宇治川にかかる観月橋 出典:peia / PIXTA

中世までは、琵琶湖から流れ出した瀬田川は、山城に入って宇治川と名を変え、この湖にいったん流れ込み、そこからまた流れ出て木津川や桂川と合流し、淀川と名を変えて大阪湾に流れていきました。

その合流点の少し下流の橋本というところは、むかし橋が架かっていたのですが、その南側には石清水八幡宮があり、北側には山崎の町があります。瀬戸内海を航行してきた大きな船も、ここまでは遡ってくることができました。紀貫之という平安時代の名高い歌詠みの方が、土佐から帰洛するときに上陸したのも、ここでございます。

そして、油座などがあって、たいそう栄えて、秀吉が本能寺の変のあとに大坂城を築くまで、山崎城を築いて本拠にしたのはお話しした通りです。

現在、菊花賞などでおなじみの京都競馬場の近くにある淀城は、山崎より少し上流の宇治川の南側、木津川の北側で、江戸時代になって築かれたものです。茶々が鶴松君を出産した古い淀城は、もう少し上流で宇治川の北側にあたる納所というところにございました。いずれにせよ、明治になって近代的な土木技術で洪水が起きないように、大きく川の流路を変更したので、当時の地形をしのぶ面影はあまりありません。

指月山は、もともと宇治の平等院を建立された藤原頼通さまのものでしたが、中世には持明院統(北朝)の持ちものになり、やがてその分家である伏見宮家の邸宅になりました。北朝の帝の御陵があるのは、その名残りです。

秀吉は聚楽第を秀次さまに譲ったあと、伏見宮邸を京都御所の北に移してこれを買い取り、京都に近い邸宅としました。そのときは風流な別荘だったのです。けれども、この年に佐久間政実さまに命じて本格的な城を築くことを始めました。

しかし、大地震のためにこの城は壊れてしまいました。地震で建物はあらかた壊れましたが、火災は起きなかったようで、櫓や殿舎の木材などが再利用できたので、地震が起きた2日後には、東の木幡山で新しい伏見城の作事が着手されました。

秀吉は、すでに木幡山(標高105メートルほど)への移転計画を建てていたのです。そして、慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が、さらに同年10月には茶亭が完成いたしました。

▲「いろいろありましたけれど、ついに完成しましたね」 イラスト:ウッケツハルコ

築城が終わった伏見城は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸などの曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在しました。私は行ったことがないのですが、茶々たちによると、肥前の名護屋城に似ているそうです。

「舟入学問所」といわれる茶亭には、宇治川から直接、舟を横付けできました。この遺構は、桃山町丹後に南北約300メートル、東西90メートルの窪地として残っております。私たちは、慶長2年(1597年)5月に天守閣が建設されたときに引っ越しいたしました。

秀吉は結局、ここで死ぬことになるのですが、そのお話は次にするとして、この城の運命はどうなったかと言えば、関ヶ原の戦いの前夜の攻防戦で焼けてしまいました。

三期目のものは、徳川家康さまによって同じ場所に再建されました。1603年に家康さまが将軍宣下を受けたのは、この城でございましたし、秀忠さまも家光さまも、同じようにここに勅使を迎えて将軍となりました。

ですが、1625年になって廃城となりました。跡には桃の木が植えられたので、いつしか桃山と呼ばれることになったのでございます。この城を廃したのは、秀吉の思い出を消したかったからではございません。ここは徳川幕府発祥の地なのでございます。大坂城が手に入ったので、京都での滞在先は二条城、西国の押さえは大坂城で、という役割分担にしただけです。

建物は、天守閣が二条城に移されたのをはじめ、各地にもらわれていきました。皇居二重橋の伏見櫓、福山城の伏見櫓、二条城唐門、豊国神社唐門、竹生島神社本殿と渡廊下、東山高台寺、伏見御香宮、長浜大通寺の諸建築、西本願寺白書院、松島観瀾亭など全国に散らばっております。

すべての伝承が正しいとは限らないわけですし、学者の方は、移築されたことの証拠がないとして否定されることが多いのですが、日本の建築史上の傑作群だと言っていただいております。最高の部材と名工が、腕に“より”をかけた作品を再利用せずに無駄にしたと考えるほうが、おかしいのではないでしょうか。

昭和に再建された、現在の伏見城の鉄筋コンクリートの天守閣は、私たちの頃の本丸が明治天皇の御陵になったために、少し外れた所に立っております。けばけばしく品がないという人も多いのですが、本来の桃山時代らしい色彩感覚が再現されておりまして、映画などではこれを大坂城として使うことも多いのでございます。※1

また、築城と並行して、大土木工事が起こされ、宇治川と巨椋池のあいだを堤で分離して水深を深くし、大きな船が伏見まで遡れるようにし、淀川左岸の堤を頑丈にして伏見と大坂のバイパスのようにもしたのでございます。

また、江戸時代には、西国大名は参勤交代のときに、姫路の室津港あたりまで船で来て、大坂に入り、船で伏見に立ち寄り、そこから京には入らず、山科盆地の東側を抜けて逢坂の関から大津に入って、そこから東海道を下がるのが普通でございました。

こうして伏見は「京都港」といった機能を持つようになりました。幕末の歴史でも、坂本龍馬なども大坂からここまでは船でやってきて、船宿である「寺田屋」に泊まったことはよく知られたとおりです。鉄道の時代になるまでは、ここが京都の西日本への玄関口だったのです。

▲伏見桃山城 出典:adigosts / PIXTA

■秀頼を後継者として認知させようと必死の秀吉

お江と徳川秀忠さまの婚儀が執り行われたのは、秀次事件から2ヶ月が経った9月のことでございました。徳川家をお拾(秀頼)の後ろ盾としようという必死の願いでした。??????

お江は秀忠より6歳も年上でしたが、そんなことは天下を巡る思惑のまえでは、誰も問題にいたしませんでした。とりあえず、家康さまにとっては身の安全が保証されたようなもので、大満足の縁組みでござました。

そして、茶々たち三姉妹にとっても、織田家の家臣団筆頭として、絶対の信頼が置ける前田利家さまに加え、徳川家がお拾の後ろ盾となってくれるであろうことで、すっかり安堵できたのですが、実際はそうでもなかったのはこれからお話しするとおりです。

秀忠という青年は、私が人質として短期間ですが預かったことがございまして、身長は160センチほど、当時としては普通です。身体つきはがっちりしていましたが、なかなか初々しく、私やお江にも、その後もそれなりに気をつかってくれましたが、家康さまに反抗してまで……というのは無理だとわかっているようでした。

秀次の領地であった尾張は、義母なかの縁者である福島正則さまに与えられました。大抜擢ですが、秀吉は前田利家さまにどうかと思ったのですが、石田三成が「虎に翼を与えるようなもの」といって反対したというようなことを孝蔵主から噂として聞きました。そのかわりに、越中新川郡(富山市)を加増いたしました。

この年、会津の蒲生氏郷さまが亡くなられました。父の賢秀さまは藤原秀郷の流れを汲むという、近江の蒲生郡日野というところの土豪で六角氏に従っていましたが、早い時期に信長さまに下られました。嫡男の氏郷さまを岐阜に人質に出されたところ、信長さまはこの若者をいたく気に入り、次女の冬姫さまの婿にいたしました。

信長さまの家来では、堀秀政さまと並ぶ若手のホープで、秀政さまが小田原で陣没され、この年に氏郷さまが亡くなられたのは秀吉の将来構想にとっても、大きな痛手でした。

秀吉が氏郷さまを会津に配されたのは、伊達政宗らに対する睨みで、むしろ、家康さまと東国支配の両輪であることを望んでいたのです。家康さまの監視役ではありませんでしたが、それでも存命だったら、徳川に天下をやすやすと許すことはない、気骨のある武将でござました。

京都の時代祭には、「豊公参朝列」という演し物も登場いたします。慶長元年(1896年)5月2日に行われた秀頼の皇室初参内と、元服時の行列の一部を再現したものです。大名は騎馬、それ以外は徒歩で行進いたしますが、秀吉とお拾は、牛車に乗って参内いたします。

自分が生きているうちに、秀頼を後継者として認知させようと秀吉は必死だったのです。そして9月には、秀頼を早くも元服させました。

■明の使節が派遣されるも再派兵を命じた

碧蹄館の戦いで日本軍が勝利したのは、文禄2年(1593年)1月でした。明も交渉に応じることになりました。日本軍としても、漢城で食糧不足に悩んでおりましたので、日本軍は漢城を離れて半島南部に退き(4月)、明軍も朝鮮から撤退し、加藤清正が捕縛した王子を返還すること(8月)、明の使いが日本へ派遣されることなどが決まりました。

こうした戦いで、先に使者を出すことは、和を請うことになりますから、形の上では日本が勝ったと言えばそうなのです。しかし、明の使節は身分の低い者で、正式の使節とは言いがたいものでしたから、呉越同舟です。

明の使いは名護屋の秀吉のところに来たので、秀吉は明皇帝の皇女を帝の后妃とすること、勘合貿易の復活、朝鮮の慶尚・全羅・忠清・江原道の割譲、王子を人質として日本に送ることなどを要求いたしました(5月)。

また同じ頃、朝鮮では難攻不落と言われた慶尚南道の晋州城を、宇喜多秀家らが総攻撃し、これを占領しました(7月)。これで慶尚道や全羅道の確保の基盤ができたわけです。ここでいったん、日本軍は引き揚げたと間違う人がいますが、守備隊は釜山周辺に残っておりました。

▲晋州城 出典:kim1004 / PIXTA

一方、北京には小西行長の家臣である内藤如安(丹波出身で松永久秀さまの甥です。切支丹でジョアンを漢字にして名前にしておりました)が派遣されることになりました。これは、明の皇帝(万暦帝)に対しては秀吉が和を請うてきたので、アルタンと同じように日本国王に冊封し、貿易も行うことを許してやろうということで丸く収める手はずでございました。文禄3年(1594年)12月のことです。

ところが、明の宮廷では、秀吉がアルタンのように北京に近いところまで攻めてきていたわけでなかったし、アルタンに冊封と貿易を許しても、必ずしも大人しくなったわけでないというので、冊封だけはするが貿易は許さないということにしてしまいました。しかも、それすら万暦帝は不満だったらしく、内藤に直接の謁見を許しませんでした。

それでも、明は日本に正式の使節を出すことにして、文禄4年(1595年)の11月には釜山までやってきたのですが、使節のなかで意見がまとまらず、まだ日本に出発できませんでした。

しかし、このあいだに日本では、秀頼の誕生と秀次の切腹という大事件が起きていたのです。この事件のために時間を空費したことが、秀吉の存命中に事態を打開できない原因になり、それは後悔が残ることでございました。

文禄5年(1596年)には、明の皇帝から使いが来て講話の交渉がございました。はじめは、伏見城で謁見が行われるはずでしたが、閏7月の13日未明に大地震があり、現在の左京区から東山区、そして伏見の町が壊滅的な大損害を受けました。

この地震で方広寺の大仏殿は無事だったのですが、大仏がばらばらに壊れてしまいました。早く完成させたいと秀吉が焦って、唐人の仏師が勧めた木造にしたのがいけなかったようです。

伏見城でもほとんどの建物が倒れてしまいました。朝鮮での軍律違反を問われて、伏見で謹慎中だった加藤清正さまが、一番に駆けつけて罪を許されることになったと言われるのはこの時のことでございますが、私はその時の清正のことはよく憶えておりません。

当然、明使節の謁見どころではなくなり、代わりに大坂城に千畳敷という広間をこしらえて、そこで9月1日に謁見して、その場は穏やかに終わりました。けれども、そのあとの奉行たちの会談で、意見が対立して再派兵ということになってしまいました。

条件が折り合いそうもないことを心配した小西行長や宗義智が、秀吉に嘘をついて、ことをやり過ごそうとしたら、通訳にあたった相国寺西笑承兌が正直に訳したので、秀吉は書状を破り捨てたという説が信じられているようです。しかし、書状もちゃんと残っております。

秀吉がどうするつもりだったかは、私もあまりよくは聞いておりません。うまくいっているときなら調子のいい目論見を自慢げに話すのですが、そうでもないときですから、それほど言わないのです。

それでも、私の秘書ともいえる孝蔵主が、石田三成などから聞き出したところによると、明の使節団では、秀吉を日本国王に冊封する、朝鮮からの全面撤兵を要求する、加藤清正の捕らえた2人の王子を返還したお礼の使節を朝鮮国王に送らせる、交易はとりあえずは受けない、ということが交渉方針でございました。

ところが、正使のはずだった李宗城は、これを秀吉にはっきり通告して示そうとし、それに対して副使に予定されていた楊方享は、とりあえず冊封だけしたうえで交渉に入ればいいと主張したようです。

そこで李宗城は、そんなことでは北京に帰ったときに自分の身が危ないと、釜山から逃げてしまいました。楊方享が正使、そして沈惟敬が副使になって日本にやってきたのです。朝鮮の王子については、日本に一緒に来るようにというのが小西行長らの要求でしたが、朝鮮国王がどうしても拒否するので、なんとか明側が朝鮮側を説得して使節団だけ連れてくることで、良しといたしました。

そして、大坂城での対面では予定通り格好はつけたのです。このとき、秀吉の命令で、朝鮮の使節団は王子を連れてこなかったのが無礼だということで堺に留め置かれ、同席は許されませんでした。

小西行長や石田三成は、秀吉がこだわっている領土の割譲を承知させることは、すぐには無理としても、半島南部の倭城への駐留を継続させる、半島南部全域とはいわずとも、慶尚道と全羅道を日本に割譲したうえで、お礼に来た王子の封地として、秀吉から与えて間接統治し、引き続き明には交易を求める、ということが落とし所としてあるかと考えたようです。

戦争の和平は、太平洋戦争のように無条件降伏して、一括で戦後体制を決めるということはむしろ希で、停戦と戦闘再開を繰り返しながら最終的な落とし所を探るのがむしろ普通なのです。ですから、倭城への駐留となんらかの形での領土割譲を得たら、あとは時間をかけて獲物を獲得すればいいという考え方でした。

ところが、明国使節団が領土割譲はしないと曖昧さを拒否して強硬に主張したので、それを秀吉に報告したら、直ちに本格的な再派兵だということになってしまったのです。

小西行長や石田三成は、明の使節団はとりあえず筋論で頑張っているが、交渉のなかで妥協することもあると思ったのでした。しかし、あまりにも明側が原則論に拘った物言いをしたものですから、秀吉が「行長に瞞された」と怒ってしまい、行長は切腹だと秀吉が言うはめになったのです。

しかし三成が、秀吉を上手に説得して行長を切腹することはなんとか思いとどまらせました。しかし、本格的再派兵について、これ以上は時間を空費できないという秀吉の気持ちは固く、覆せず、いわゆる慶長の役が始まったのでございます。

■朝鮮支配を黙認してもらいたかった行長と三成

ところで、小西行長や石田三成たちが、実際はどうしたいかと考えていたかです。参考になるのが、ひとつは、既に何度も紹介しているモンゴルのアルタンという人が、順義王という肩書きで冊封を受け、交易の特権も認められたことです。

冊封を受けたので、明の皇帝の家来になったようにとる人もいるでしょうが、それは現在の中国政府が勝手な歴史解釈をしているだけで、実際には、明の皇帝からアルタンのほうに貢ぎ物をしているのと同じことでした。

もうひとつ参考になるのが、関ケ原の戦いのあと、琉球(沖縄)について行われた措置です。沖縄に住んでいるのは、南九州から平安時代以降に引っ越しした方々が主流です。交流は盛んで言葉も日本語の方言ですから、早くから仮名が使われていました。

平安時代までは人口は僅かで、農業があまりされていなかったので、きちんとした「クニ」のかたちはなかったのですが、九州からの移民が農業を盛んにして、鎌倉時代あたりから、城(グスク)に有力者が本拠をおいて徐々にクニができて、南北朝時代には3つのクニにまとまってきました。

そこへ、明が統一されたので、洪武帝は周囲の国に、船も乗組員も準備するからと持ちかけて朝貢するように勧めました。それに応じて、朝貢使を派遣して、お返しにと貢ぎ物の何倍もの返礼品をもらい、琉球はそれを日本などに転売して儲けていました。また、琉球国王は形式的には明の皇帝の冊封で就任することになりました。

しかし、薩摩で島津氏の覇権が確立すると、こちらの影響も強まってまいりました。とくに日本の国内では、沖縄との交流は薩摩に任せておいて欲しいということになっていきました。そして秀吉の大陸遠征にあたっては、琉球は遠征軍に参加するように秀吉命令されたのです。琉球では、明にこれを通報する一方、派兵は無理だが、その代わりに島津が立て替えてくれるなら、お金は出すというコウモリ外交をしたのです。

しかし、これを琉球の王府で力をもっていた中国人官僚たちが※2、いつになっても返還しないために、島津では家康さまの了解を受けたうえで、派兵して支配下に置き、結局のところ、明との関係はそのまま続け、薩摩と明が間接的に貿易をする、首里に薩摩の代官を置いて国政を監督する、将軍に通信使を出す、奄美諸島は薩摩に割譲するということになりました。

明のほうでは、薩摩に実際支配されていることは知っているのですが、知らないことにしておく、つまり黙認するということになったわけです。

小西行長たちが考えていたのは、これに似たもので、それなりに現実的なものでしたし、琉球についてこうした関係を明も実質的には了解したくらいですから、朝鮮についても受け入れ不可能ではなかったかもしれません。

▲首里城 出典:Anesthesia / PIXTA

※1 明治天皇伏見桃山御陵は、秀吉の築いた伏見城天守台のすぐ南側に築かれたので、御陵の裏側に天守台が現存しているはずだが、調査が許可されていない。

※2 琉球では、まだ官僚機構をもった政府が成立しない段階で、明国が官僚を送り込んで、それが王府の対明窓口になっていた。江戸時代になると彼らもやや土着化し、日本との関係を重視するようになるが、この段階では北京の顔色ばかり見て、島津氏や幕府に非礼を繰り返し、武力討伐を招いた。

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