「能の稽古で忙しい」自分を主人公にした作品を残した秀吉

■秀頼のことが心配でしかたなかった秀吉

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことは 夢のまた夢 」という美しい辞世の句を残して秀吉が亡くなったのは、慶長3年(1598年)の8月11日のことでした。

辞世の句というのは、本当に死ぬ間際で詠むものでなく、あらかじめ用意しておくもので、この句も私の秘書である孝蔵主が預かっていたのです。死の床での秀吉は、秀頼たちのことが心配で心配で、こんな澄み切った気持ちにはなれなかったことでしょう。

この句の「なには」というのを「浪速」だと解釈する人もいますが、天下人としての秀吉の本拠はむしろ京都ですから 、「浪速」とか「難波」だというのは、大坂の人の願望ではないでしょうか。

秀吉が、どうも寿命が尽きそうだと自覚いたしましたのは、それより2か月ほど前の6月の頃からです。6月15日に、伏見に高野山金剛峯寺の建物を移築することになり、その工事現場へ出かけ、指示などして無理をしたのがこたえたようです。

その2日後には、やはり体調を崩して同じ伏見城の松ノ丸で静養していた側室の京極竜子に手紙で「見舞いに行きたいのだが、私も体調があまり良くない」と書いたと、後に竜子が言っておりました。

そして、その後は大名たちを呼び寄せて話をしたり、死んだあとのことについて私たちに指示を出したりしましたが、外出することはありませんでした。

ただ、それに先立つ最後の2年ほどは、秀頼が成人するまで自分は生きていないかもしれない、という気持ちになって、少しでもできることをしておきたいというようになりました。

とはいえ、頼りにしていた同年配の戦友たちも高齢となり、次から次へと亡くなっていき、死んだのちの構想も、そのたびに変更せざるを得なくなっていったのです。

ところで、それより少し前の3月15日に、皆さまもご存じの「醍醐の花見」を秀吉は開きました。3月中旬に花見というのは、太陰暦だからです。醍醐寺の三宝院に、私や茶々や竜子など側室たち、そして前田利家さまの妻・まつさまなど、大名の奥方たちを集め、自分も楽しみながら、世話になった女性たちも喜ばそうという、秀吉らしい心遣いでした。

▲醍醐寺のしだれ桜 出典:JIRI / PIXTA

この花見の前には、平安時代に建てられたまま残っている五重塔など、山内の建物を修理して、各地から700本もの桜を移植させました。雨が続いて心配いたしましたが、当日は晴れて風もなく、桜も満開でございました。

輿の行列では、最初に私が、次は茶々(西の丸殿)、三番目は竜子(松の丸殿)、それから信長さまの娘である三の丸殿、利家さまの娘である加賀殿、利家夫人のまつさまが続きました。家中に仕える女性数百人にも仮装させて行列をさせました。

宴席では、私の次に竜子が茶々より先に杯を受けたがって、茶々と言い争いになったのですが、まつさまが「歳の順なら私が」と言って事なきを得ました。もともとは竜子が歳上ですし、京極氏は浅井氏にとって主君ですから、竜子のほうが序列が上だったわけです。その一方で、茶々は秀頼の母親ですから、それなりの格を与えなくてはならないので、重んじられるようになったのですが、はっきりした形で序列を示す機会はあまりなかったので混乱したのです。※1

秀吉は、女性たちと一緒に、醍醐の山にしつらえられた八軒の茶屋を巡って楽しみました。茶屋には露店が設けられ、扇・装飾品・人形・文房具・餅や菓子などが用意された夢ようなの世界でございました。

女性たちには、行列の衣装のほか着替えを2回させ、着物は全て新品で、秀吉からのプレゼントでした。

「深雪山 帰るさ惜しき 今日の雪 花のおもかげ いつか忘れん」。このときの秀吉の歌です。そして、「ともなひて ながめにあかじ 深雪山 帰るさ惜しき 花のおもかげ」というのは私の詠んだ歌です。「深雪山」は醍醐寺の山号です。

▲「このお花見は秀吉との楽しかった思い出です」 イラスト:ウッケツハルコ

■自分が主役の演目を作らせるほど好きだった「能」

これまで秀吉の好みのようなものを、茶道以外はあまり書いてこなかったので、少し紹介しておきましょう。

食べ物では、若い頃から、大根とかゴボウ、人参など根菜類が欠かせませんでした。晩年は、米粒を小さく割って炊いた「割粥」が消化が良いとして好んでおりました。大名になってからでは、タコやイカ、アワビといった海産物をとくに好んで食べました。

服装では、髭が貧弱なので付け髭を付けたり、派手な陣羽織など大好きでした。大阪城天守閣にある「蜻蛉燕模様陣羽織」や「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」とか大胆な構図の優れものです。

私が遺品として持って身の回りに置き、現在も高台寺に伝わる「鳥獣文様陣羽織」は、獅子が描かれたペルシャという国の絨毯を切って陣羽織に仕立てたものです。旗本木下家に伝わる金色のビロードで刺繍を施した陣羽織も南蛮好みのものです。南蛮渡来にみえますが、聞くところでは、中国でヨーロッパに輸出するために、インドのゴア風のデザインで仕上げたものだそうです。

甲冑では、「菖蒲」の一種である「馬蘭」の葉をモチーフにした兜などは秀吉らしいものです。伊達政宗が拝領した「銀伊予札白糸威胴丸具足(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)は、銀箔押の伊予札を白糸で威した胴丸具足で、兜は熊やヤクの毛があしらわれています。

刀は「本阿弥光徳」に管理させていましたが、お気に入りの正宗と吉光を十数振も持っていました。宮内庁にある鎌倉時代の粟田口吉光の「一期一振」は、お気に入りの1つでした。

もともと無学ですが、頭はいい人で勉強やお稽古事も好きだし器用でした。和歌、有識故実、書なども結構こなしました。

しかし、秀吉が熱心だったのは、なんといっても「能」です。秀吉が能を始めたのは文禄になってからのことです。千利休が切腹し、鶴松が亡くなったのがきっかけと言えなくもありません。

名護屋から「能の稽古で忙しいので寧々に手紙が書けなかった」と書いてきたほどです。恐れ多くも禁中で自ら能を演じたり、「明智討」「柴田」「北條」といった自分を主人公にした新しい演目をつくらせて、自分で自分の役を演じたのですから、私は恥ずかしいと言ったらありませんでした。

「吉野詣」では、吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、豊臣の世を寿ぐというものですし、「高野参詣」に至っては、義母なかの三回忌に、高野に詣でた秀吉になかの亡霊が現れて、秀吉の孝行を称えるというものです。

観世・金春・宝生・金剛の大和四座は、興福寺が保護しておりましたが、これを取り上げて自ら保護しました、とくに、金春流の暮松新九郎を師匠にし、50日で15演目を憶えたと自慢しておりました。

本願寺の坊官(宗務総長)だった下間少進も、能の名人として知られていました。能を通じて秀吉と懇意になり、これは本願寺復興に大いに役立ちました。

▲自分が主役の演目を作らせるほど打ち込んだ能 イメージ:jun / PIXTA

将棋も囲碁も楽しみました。将棋はうまくないが囲碁の腕前はなかなかだった、と対局した大名方からお聞きしたことがございます。

ただ、器用で物覚えが良い人なので、何をやらせても、すぐにそこそこ上手になりまし、手順や作法を憶えてシナリオ通りに事を運ぶのは、とても得意だったのです。

■船長の法螺で厳しくなったキリシタン禁制

天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出したことは、すでにお話しした通りです。しかし、その内容は布教を禁止したとは言え、信仰し続けるのは黙認しておりますし、実際、神社や寺を壊したりしなければ、キリシタン大名ですら厳しいお咎めはありませんでした。

南蛮船はあいかわらず来ましたが、いっときの長崎のように教会に土地を寄進したり、日本人をおおっぴらに奴隷にすることができなくなっただけです。

天正20年(1592年)には、スペインのマニラの総督に入貢を要求しましたが、とくに関係が緊張したわけではありません。翌年にはフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、京に修道院の建設が許可されたりして、敵対的なことをしなければ布教してもお咎めはありませんでした。

ところが、天正14年(1596年7月)にマニラを出航したサン=フェリペ号が、メキシコを目指したものの台風に遭って土佐に流れ着きました。領主の長宗我部元親さまは、積み荷を没収したものの船長が抗議するので、判断を秀吉に求めたのです。

秀吉は増田長盛を土佐に派遣し、日本を侵略するつもりがあるのでないかと尋問したところ、デ・オランディアという水先案内人が長盛に世界地図を示し、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服をしてきた。まず、その土地の民を教化し、そののちに信徒を内応させ兵力をもって呑み込むのだ」となんともお粗末な法螺を豪語をしたのです。

しかし秀吉も、マニラでのスペインの軍事力には限界があって、日本を責めるなど無理だということを知っていたので、これにひどく驚いたというほどではなかったのですが、こんなことを言われたら、そのままにしておけません。

このために、キリシタン禁制が確認され、京にいた宣教師たちは慶長元年(1597年)12月に長崎で処刑されてしまいました(26聖人)。ただし、船の修理は認められ、無事にマニラに帰りましたが、これを機にフランシスコ会の活動は難しくなりました。

▲日本二十六聖人記念碑 出典:skipinof / PIXTA

■死後のために人事を整えていった秀吉

さて、秀吉は死ぬときに、コ川家康さま、前田利家さま、毛利輝元さま、上杉景勝さま、それに宇喜多秀家(これは私たちの養女である豪姫の夫ですから、いわば家族ですので呼び捨てにします)の五大老と、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以の五奉行を定めてあとを託しました。こうした仕組みは、急に思いついたわけではなく、秀次の事件の頃から、徐々に出来上がってきたものでした。

秀次の一家を三条河原で処刑した文禄4年(1595年)8月2日の翌日には、家康さま、利家さま、輝元さま、秀家に小早川隆景さまを加えて「御掟」が出されております。

ここで、5人は「大名同士の結婚は秀吉の許可を取る」「大名などが誓詞を交わして徒党を組んではならない」「喧嘩が起きたら担忍した側に理有りとする」、「大名たちのなかでは、この5人だけが駕籠を使える」とし、東国の仕切りは家康さまに、西国の仕切りは輝元さまと隆景さまに願いするとしたのです。

そして、翌年の5月には、家康さまを内大臣に昇進させましたので、これより「内府さま」と呼ばれるようになります。そのすぐあとには、利家さまも権大納言に昇格され、加賀大納言さまと呼ばれるようになりました。これにより、この2人が政権の二位、三位であることが明確になりました。

つまり秀吉は、家康さまと利家さまの2人を別格にし、牽制させ合って秀頼を守ろうとしたのです。

そして、細川忠興とガラシャの長男の忠隆さまと、前田利家さまの六女の千代を縁組みをさせました。忠興さまは次世代のホープとして人望が高く、父親の藤孝(幽斎)さまより出世するだろうと、周りの者は思っておりました。

前田一門も、利長さまは信長さま四女の永姫さまと結婚し、次男の利政さまは蒲生氏郷さまの娘の籍と結婚していましたし、四女の豪姫は私たちの養女になって宇喜多秀家と結婚していましたから、なかなか立派な門閥になりました。実子がない私たちにはうらやましい限りでした。

一方、家康さまの次女の督姫は、北条氏直さまの正室でしたが、氏直さまが亡くなったので、正室の中川清秀の娘が病気で実家へ戻っていた池田輝政と文禄2年に再婚しました。

また、秀吉の亡くなる年のことになりますが、三女の振姫は蒲生氏郷さまの子の秀行と結婚しています。※2

秀吉としては、家康さまと豊臣に近い大名を親戚にしておいたほうが良いと思ったのですが、これが裏目に出て、関ケ原の戦いでも東軍の主力になったのはご存じの通りです。

そして、その極めつけは、慶長2年(1597年)の4月に生まれた、徳川秀忠さまと江(茶々の妹)の娘である千姫を、秀頼の許嫁にしたことでした。

▲「死後のため、しっかりと人事や掟を整えていました」 イラスト:ウッケツハルコ

ところで、慶長2年に2人の方が亡くなりました。1人は公方さま、つまり足利義昭さまです。幕府に仕えていた名門の人々を率いて名護屋城に下向し、オールジャパンでの戦争であることをアピールされたのが、最後の勇姿だったと思います。

波瀾万丈の人生を送られましたが、秀吉の勧めで京に上り、准三后(皇后、中宮、皇太后に準じると言う意味で男性にも与えられた)という称号をもらい、前将軍にふさわしい扱いを受けられました。暗殺されたりなど、あまりいい亡くなり方が少なかった室町幕府の将軍としては、幸福な晩年だったと思います。

ただ、最後の数年は体調を崩されたのか、華々しい場面への登場も少なく、お弔いも地味なものになりました。

もう1人は、小早川隆景さまです。毛利家にあって秀吉のことを高く評価してくれて、毛利家をしっかり豊臣政権につなぎとめてくれました。また朝鮮でも、碧蹄館の戦いでの勝利など大活躍されたのですが、異国の地での無理がたたったようです。

隆景さまの有名な言葉に「火急のことである。ゆえにゆっくり書け」というのがあります。朝鮮での作戦を議論していたときに、「このお備え定めは皆、勝ち戦の時ばかりのことなり、負け戦したる時のご思案ありたし」と言って秀吉をも唸らせました。

あの才気走った黒田官兵衛さまに対して「お主は私より才覚があるが、慌てていろいろ策すから誤りが多い。私はじっくり考えるから誤りは滅多にない」と諭したこともあるそうで、官兵衛さまも隆景さまが亡くなられたときには「この国にもう賢人はいない」と惜しみました。

隆景さまには、子どもがなく、弟の秀包を養子にされていたことはすでにお話ししましたが、子どもがない毛利輝元さまの養子に豊臣から誰かどうかとの噂があり、それに先手を打つ意味からも、隆景さまは私たちの養子になっていた秀秋を養子にされました。

私の甥で、兄の木下家定の子です。子どもの頃は利発そうで、一時は秀次と並んで秀吉の後継者候補ともいわれたのですが、少年時代から酒を飲むようになり、期待したような器量には育たず、私も責任を感じております。

秀吉は慶長の役では、小早川秀秋を総大将として朝鮮に派遣しますが、その任に堪えずということで呼び戻し、やがて、筑前から越前北ノ庄15万石に移しました。といっても、将来の成長を待って、また増やしてやろうという趣旨でした。

秀吉が生きているうちでの大きな大名の入れ替えの最後は、慶長3年(1598年)になって、上杉景勝さまを会津に、蒲生家を宇都宮に移したことです。蒲生秀行の家中がなかなかまとまらず、秀行には会津を任せておけないというのが理由でございました。

このとき、上杉家は越後や北信は召し上げになりましたが、佐渡と庄内は安堵されたので、120万石といわれるほどの大大名になりました。

そのあと、越後には堀秀政の子の秀治が越前北ノ庄から入り、春日山城から海岸沿いの福島に城を築いて移ることになります。

氏郷さまの死後、秀吉は息子の秀行では役目が務められないと心配しましたが、家康さまの三女である振姫さまを、秀行の許嫁にすることを条件に会津を安堵しました。しかし、その後のお家騒動も激しく、この人事は大失敗でした。のちに会津から宇都宮に移された蒲生家の、上杉家への逆恨みが関ヶ原の導火線にもなったのでございます。

※1 京極吉と京極マリア(浅井長政の姉妹)には5人の子があり、長男の京極高次は大津の小浜城主で、丸亀と多度津藩主はその子孫。その夫人は茶々の妹の初。次男の高知は飯田の宮津城主で、峰山と豊岡藩はその子孫。夫人は津田信澄の娘、継室は毛利秀頼(斯波義統の子)の娘。長女は秀吉の側室京極竜子。次女は氏家行広の夫人、三女は朽木宣綱夫人のマグダレナ。

※2 コ川家康には5人の娘がいたが、成長したのは3人。信康と同母の亀姫は奥平信昌夫人。次女は督姫で北条氏直、ついで池田輝政夫人。三女は振姫で蒲生秀行、のち浅野長晟の夫人。三人とも子だくさんの家系となり、日本の名家のきわめて大きな部分が彼女たちの子孫だ。

関連記事(外部サイト)