関ケ原の戦いの原因に。秀吉の死を知らずに戦い続けた朝鮮遠征

■明の頑固さで交渉決裂となり再派兵へ

大坂城には千畳敷という大広間がございました。伏見城が地震で大損害を受けましたので、明使を迎えるために恥ずかしくないように、大坂城の本丸の南の部分に、突貫工事で建てたものです。地震があったのは、文禄5年(1596年)年の閏7月。閲見があったのは9月のことです。

徳川時代の城を引き継いだ、現在の大阪城では、本丸全体が広い平地になっておりますが、秀吉の時代の大坂城は、天守曲輪というべき小高い部分と、その南側の一段低い部分とに分かれていたのです。

▲現在の大阪城 出典:でじたるらぶ / PIXTA

今回は、時間が秀吉の生前に少し戻る部分もありますが、世間で「慶長の役」と呼ばれている、第二次朝鮮派兵について、まとめてお話ししたいと思います。

現代の人たちは、日本軍は苦戦して、半島の南部に留まり、李舜臣の水軍の活躍で制海権も取れずに散々で、秀吉の死と同時に目標達成を諦めて退いたと思っておられる方が多いそうなのですが、それは間違いでございます。

まず、江戸時代になってから生まれた伝承のように、日本国王にするという手紙に腹を立てて、秀吉が書状を破り捨てたというのは事実でないことは、第44回でお話しした通りです。

「冊封」というものを、家来になるといったように捉えるのは、江戸時代以降の儒学者が、中国の、それも学者などが創り上げた世界観に影響されて勘違いしたのでございます。ですから冊封とはこういうものだと思い込んで、秀吉もそのように理解しただろうから、受け取るはずがないと思っただけです。

確かに朝鮮国王にとっては、明に対して従順でなかった高麗に代わって、正しく忠義を尽くす王朝として建国したのですから、そうだったかもしれません。けれども、たびたび紹介してきたモンゴルのアルタン・ハーンにとっては、同じ理解だったはずもありません。

アルタンにとっては、別にチャハル部の北元皇帝という主君がいましたし、順義王という肩書きをもらったから家来になったのでなく、有利な交易を認めさせたというだけのことでした。言ってみれば、外国の君主から勲章をもらうみたいなものでございます。

秀吉にとっても同様ですし、それより、和平の細目で、領土の割譲や交易、そして、王子の来日がどうなるのかが問題でした。

このときに、はっきりと半島南部の割譲を認めなくても、日本軍の駐留を認め、あとは継続交渉にしておけば、とりあえずは本格的な再派兵はなかったのです。

ところが、明の使節団は、頑なに全面撤兵を求めました。加藤清正のもとで人質だった王子を解放して連れてこなかったことが原因で、日本まで来たものの秀吉への閲見を認められずに、堺に留め置かれた朝鮮使節団の意見も取り入れるかたちで、そのようになりました。

もちろん、小西行長たちは必死になって意見を変えさせようとしたのですが、だめでした。また、秀吉には時間をくれるようにいったのですが、朝鮮での交渉と違って、細部についてまで秀吉に別の家臣たちから報告がいきます。

明側の沈惟敬も、なんとか話をまとめたかったわけですから、必死に正使の楊方享を説得しましたが、せめて黙認するとか曖昧にするような申し合わせにすることもできませんでした。

秀吉は小西行長に瞞されたと思い、交渉の決裂と再派兵を命令しました。(9月2日)。そして、行長には切腹を命じたのですが、これには石田三成らが必死に助命を訴えました。行長も瞞されたのだといい、再派兵したうえで、あらためて領土の割譲や王子の来日を要求するときに交渉役として行長が不可欠として、秀吉の説得に成功しました。三成への信頼は厚かったので、そういうことも可能だったのです。

ここで秀吉は三成らと相談して、怒りの矛先を明ではなく、朝鮮に向けることにしました。つまり、明の皇帝から冊封されたことを逆手に取り、せっかく明の皇帝が朝鮮に対して秀吉に従えとしたにもかかわらず、王子を送らないなど非礼であるという論理構成です。

10月から12月にかけては、サン・フェリペ号事件の処理や、地震で壊れた伏見指月城から大坂城への引越しなどがありましたが、10月27日には改元があり、慶長元年となりました。

年が変わって慶長2年(1597年)元旦には、朝鮮半島への再出兵が命令されました。といっても、釜山城には宗義智、加徳城には島津忠恒がそのまま留まっておりました。さらに小西行長が汚名返上をかけて熊川城、加藤清正は多大浦に上陸して大軍の到着を待ちました。

2月21日には正式の陣立てが発表になりました。総大将は小早川隆景さまに代わって、筑前名島城主になっていた小早川秀秋です。

先陣は偽装外交で切腹を命じられ、この戦いでの汚名返上しないと後がない小西行長と、1度目の朝鮮出兵で大活躍して朝鮮の2人の王子も捕虜にした加藤清正。水軍は加藤嘉明や藤堂高虎といった方たちが大将を務めました。

石田三成は朝鮮に渡りませんでしたが、秀吉への報告、武将の恩賞の確保など、朝鮮遠征についての政務に奔走していたようです。

さらに五大老の宇喜多秀家、関ヶ原の戦いで毛利軍を率いた毛利秀元と吉川広家、関ヶ原の戦いのシナリオを描いた安国寺恵瓊さま、関ヶ原の戦いで東軍となり石田三成の本陣を攻めた黒田長政、関ヶ原の戦いで苛烈な敵中突破で活躍した島津義弘などが参加いたしました。

■慶長の役が開戦するも現地では大名同士が対立

▲釜山金井山城 出典:miiko / PIXTA

日本軍は慶長2年(1597年)6月、釜山に集結して「慶長の役」が始まります。

朝鮮水軍の元均(ウォン・ギュン)という人は、総大将の権慄(クォン・ユル)から日本艦隊への攻撃を命じられますが、水軍を再建したといっても、正面から当たるのは厳しいとして、小規模な攻撃を何度か行って失敗したあと、釜山の西にある巨済島に停泊しました。

日本軍は7月半ばに、海上から一斉攻撃して上陸した部隊と挟撃して「漆川梁海戦」で敵を全滅させ、元均や李億祺(イ・オッキ)なども戦死しました。

前回、兵站戦が延びて失敗したことに懲りて、日本軍は南部をしっかり固めることを優先します。目的が明国征服から、朝鮮王国を屈服させ王子を日本に送らせ、半島南部の統治体制を固めることにあったので当然でございます。

とくに穀倉地帯である全羅道の確保に努めました。ここはかつて、任那といって日本領だった土地でございます。秀吉は、地図で赤く塗られていたことから、「赤国」と呼んでおりました。田畑を耕させるために、好条件で投降を薦めたりして、領土として支配する体制をだんだんとつくっていきました。

朝鮮では、元均と対立して引退していた李舜臣(イ・スンシン)を将軍に復帰させました。そして、9月には朝鮮の李舜臣の水軍が、釜山から西に向かっている日本の水軍を阻もうとした鳴梁海戦が起こります。

李舜臣は半島南西端の潮流れが強い海峡に陣取ったので、藤堂高虎は、村上水軍の来島通総(くるしま みちふさ)に中型船で攻めさせますが、失敗して来島通総は戦死いたしました。病気で戦没死したとか戦いでの傷が原因で死んだ大名は何人かおりますが、広い意味ではただ一人の戦死者でございます。

この鳴梁海戦、韓国では鳴梁大捷(鳴梁大戦)と呼ばれ、李舜臣が日本の大艦隊に圧倒的な損害を与えて勝利した戦いとしたとされておりますが、「日本の軍船30隻と衝突」「朝鮮船12〜13隻と戦闘」しただけです。

日本水軍は全羅道西岸まで進出し、姜(カン・ハン)や鄭希得(チョン・ヒドゥク)などの多くの捕虜を得ました。姜は、のちに日本での生活について『看羊録』を残し、藤原惺窩に朱子学を教えた人です。

それまでの儒学は、処世訓のようなものか、それとも禅宗のおまけみたいなものだったのですが、姜らが両班による統治論理としての朱子学を持ち込み、これをコ川家康さまが気に入って江戸幕府の正式の学問にされたので、朝鮮式の封建思想が日本に入り込みました。

武士たちの行儀が良くなったのはいいことなのですが、男女を厳しく区別するとか、身分制度を厳しく運用するとかというのは、あまりいい影響ではなかったかと思うのでございます。※1

この頃、和平交渉で小西行長と話し合った沈惟政は北京に帰りましたが、交渉の失敗の責任を取らされ死刑にされたそうです。そして、大軍を朝鮮に差し向けましたので、朝鮮だけを相手にして明には中立を守らせようとする行長の作戦は、とりあえず失敗しました。

明の大軍が南下してきたので、忠清道(現在の韓国の中西部)を北上して漢城に迫っていた黒田長政は、漢城の手前で明の主力と遭遇し、日本軍は引き返して海岸部に堅固な5つの城を築いて守りに力を注ぎました。

日本側の要求は、慶尚道(現在の韓国の南東部)、全羅道(南西部)、忠清道(中西部)、江原道(中東部)の割譲というものでしたので、漢城を落とすより、計画では慶長3年(1597年)は統治をしっかり固め、慶長4年に漢城を総攻撃して雌雄を決するつもりでした。

しかし、12月になると、明軍は楊鎬の率いる約5万の大軍を持って進軍を開始し、釜山の東に築城中だった蔚山城を総攻撃しました。そこで加藤清正が蔚山城に入り、浅野幸長と共に守備しましたが、城は未完成でしたし、食料もなく大苦戦でした。

しかし翌年(1598年)の1月3日、毛利秀元・吉川広家・黒田長政・蜂須賀家政・宇喜多秀家・小早川秀秋・立花宗茂などが率いる、約1万3千人の援軍が到来、海上からも長宗我部元親の水軍が到着して包囲中の明軍を撃退しました。

このとき、明軍は2万人以上の死者を出したといわれます。ただ、蔚山城の戦いで最後まで城を守り、何倍もの明の大軍を相手に奮戦した加藤清正や浅野幸長ですが、彼らの功績はあまり認められませんでした。さらに、彼らを助けるために戦った小早川秀秋は、自ら先頭を切って戦っていたため「大将なのに軽率すぎる」と報告され、評価されるどころか処罰対象に。

蜂須賀家政も、加藤清正や浅野長政を救援しますが、「最初は戦ってなかった」「追撃しすぎて戦線を広げすぎた」などと言われ、むしろ領地の一部を没収、黒田長政も同様に「消極的だった」と報告され、秀吉から処罰を受けています。

毛利家の朝鮮派遣軍の大将だった毛利秀元と、その麾下の吉川広家も、この戦いでもっとも大きな功績を挙げたにも関わらず、決戦の前の日に抜け駆け的に夜襲を行ったため、同じ毛利軍にいた安国寺恵瓊さまに「あいつら軍令違反だ!」と報告され、不穏な状態になりました。

こうした検分をしたのは軍目付と呼ばれる人たちですが、石田三成系の大名が主だったので、のちのち問題になります。※2

また、真偽は解りませんが、朝鮮側の記録には「小西行長が加藤清正の上陸を密告してきたが、李舜臣は罠かと思い攻撃しなかった」というものがあるようです。これが本当とは思えませんが、裏取引であっても最低限の要求が通ったら和平に持ち込みたい三成や行長と、交渉を壊そうと暗躍する清正とは激しく対立いたしました。

秀吉も表面的には強硬策ですが、行長たちの交渉をなかば黙認していました。それが誤解のもとになり、三成・行長と清政の対立の原因になって、これが関ケ原の戦いの原因になったわけですから、返す返すも残念なことでございました。

▲「秀吉の判断が関ケ原の原因になってしまったのです」 イラスト:ウッケツハルコ

■秀吉の死を知らず戦う大名たち

日本軍は、各地で城の守りを固め、兵糧や武器も大量に運び込んでいきます。翌年に攻勢をかけるための準備だったようで、そのためか主力の一部は再出兵に備え、一旦帰国しています。

1598年8月、残念なことに秀吉は死んだのですが、その死は遠征軍には伝えられませんでした。この頃、明・朝鮮の総勢10万以上の大軍勢が迫ってきていました。9月には蔚山に麻貴という明の大将が約3万人の軍勢で攻撃を行いますが、加藤清正らが奮戦したおかげで撤退します。

中央部の泗川城では島津義弘が守り、明軍の総大将である董一元が率いる、20万と号された明の大軍が城を包囲しようとしますが、これを引き付けての一斉掃射で明軍は蜂の巣にされます。このとき日本軍は地雷を使ったといわれてます。島津義弘は「鬼石蔓子(鬼シマヅ)」と呼ばれ、恐れられることになります。

南西部の順天城では、1万3千の兵で小西行長が守っていました。明・朝鮮軍は明の勇将劉テイと朝鮮の総大将・権慄が率いる、約2万5千の軍勢で攻撃、海からも約2万5千の水軍が攻勢をかけます。

ここでは海からの強襲に加えて、陸から多数の攻城兵器(雲梯と呼ばれるはしご車や、飛楼と呼ばれる移動式やぐらなど)を使った攻撃が行われました。しかし、日本軍の鉄砲射撃と焼き討ちによって攻城兵器はことごとく燃やされ、海からの攻撃も明の船団が干潮で座礁するなどして、失敗が続いてしまい攻撃を断念しました。

この戦いの前、和平交渉を持ちかけられた小西行長がそれに応じようとして出ていき、生け捕りにされそうになって、命からがら逃げたという一幕があったようです。

ところが、勝った日本軍が急に撤退の準備をしているのを見て、朝鮮側も秀吉が死んだことを察知し、李舜臣が率いる朝鮮水軍が撤退の阻止に動き、順天城周辺の海域を封鎖、小西行長は脱出できず窮地に陥ります。しかし、小西行長のピンチを聞いて、島津義弘と立花宗茂が艦隊を率いて救援に向かい、露梁海戦が起こります。

救援に向かう日本軍を、明と朝鮮の水軍が待ち伏せし、挟撃する形で始まりました。しかし、明水軍の副将であるケ子龍が、突出しすぎて日本の軍船に包囲され、それを救援しようと李舜臣が前に出て、こちらも日本の軍船に囲まれ、乗り込んできた日本兵に船尾から鉄砲で撃たれて落命したようです。ケ子龍も共に戦死しており、ほかにも明と朝鮮は多くの指揮官が戦死して、海域の封鎖が解かれて小西行長軍は脱出に成功し、日本側の撤収は支障なく行われました。

李舜臣という人は、韓国の国民的な英雄です。ソウルのメインストリートにあたる世宗大路に巨大な銅像がありますが、局地戦では勝利を挙げているものの、一貫して対馬海峡の制海権は日本が握っていましたし、露梁海戦でも結局のところ敗北して、自身も戦死していますので、なぜ名将なのかよくわかりません。

のちの時代で帝国海軍の東郷平八郎元帥が、李舜臣のことを世界の海軍史上で三大名提督の一人だと言ったという話がございますが、元帥と会ったという韓国の方が仰っているだけです。陪席者もないし、単に相づちを打ったり、リップ・サービスしただけかもしれないので、嘘と断定もしませんが、あてになる話ではありません。

▲ソウルの李舜臣像 出典:Piotrus(ウィキメディア・コモンズ)

■私には政務の相談役は荷が重かった

秀吉が亡くなったあと、遺体はその日のうちに東山阿弥陀峰に移され埋葬されましたが、これは神になることを望んだ秀吉のために、葬儀が神式で行われたためです。しかし、朝鮮からの撤兵を円滑に進めるために、その死は注意深く秘密にされました。このため、豊国神社の工事が始まっても、大仏殿の摂社か何かの工事では? と京都の人たちは思っていたようでございます。

▲阿弥陀ヶ峰の頂上付近 出典:kumayosi / PIXTA

そして私や茶々、秀頼に大坂城に移るようにと前田利家さまが言われました。茶々は住み慣れた伏見城を去るのをイヤだったようです。ただ、利家さまは遺言ということで譲らず、翌年の正月早々に実行されます。堅固な大坂城にいるほうが安全だというのが、秀吉の考えだったのでございます。

家康さまは、秀忠さまに江戸へ戻れと命じられました。危険を避けるためと、いざというときに関東から軍勢を率いて上洛できるようにするためです。

茶々の妹の江も、しばらくして江戸へ移ることになりました。家康さまは「しばらくのことだ、富士の山を眺めながら暮らすのもいいものだ」などと、明るく言われたと聞きましたが、三姉妹が今後のことなどを話し合って、さらに、それに秀忠さまが影響されたりすると面倒だと用心深く考えられたのでしょう。

茶々と江が会ったことはそれ以降、一度もありません。姉妹の意図しない生涯の別れだったのでございます。

三姉妹のうちの真ん中で京極高次の妻である初は、高次の姉妹で、秀吉の側室で松の丸殿といわれた竜子を連れて大津城に戻りました。秀吉は亡くなる年に初にも近江に2千石の領地を与えております。寿命を悟ったのか、自分の死後に茶々や秀頼を助け、あわせ竜子の面倒も見るようにという趣旨でした。

大津城は、現在の浜大津港のあたりにございました。京都から逢坂の関を過ぎて、谷間を縫うように東海道を行くと、突然に視界が開けて琵琶湖や比叡・比良の山々が眼下に広がります。

そこからなだらかな坂道を下っていくと浜大津港があります。そこが大津城の本丸跡でございます。いちばん低いところに本丸がある「穴城」ですが、幾重もの堀が巡らされ、それが江戸時代には水路として利用されていましたので、その痕跡くらいは今でも見つけることもできます。

「近江八景」というのがありますが、大津城の天守閣に上れば、比良の暮雪が遠くに姿を見せ、真っ白い帆船が湖を行き交い、三井の晩鐘の美しい音色が湖面に流れていきました。

とくに感動的なのは春霞と虹でございます。元禄の頃、松尾芭蕉という俳人が、「ゆく春を 近江の人と惜しみけり」という句を詠みました。昭和の作家である司馬遼太郎という人は、この句の“近江”をほかの地名に置き換えても成り立たないと書いています。琵琶湖に立ち上る春の霞とか、近江の人のやわらかさがあってこその句だというのです。

近江は虹の多い国でもあります。夏の雨上がりなどには、琵琶湖の上にそれはそれは大きな虹が架かるのでございます。虹のことをフランス語では「アルカンシエル(空に架かるアーチ)」と言うそうですが、それが実感できます。

しかし、そのときは、わずか2年後にこの大津城で、初の生涯で三度目の落城を経験することなど想像もしていなかったことでございましょう。

一方、秀吉の遺言では、私は大坂城から伏見城本丸に移り、家康さまが政務を指揮するうえでの相談役になるように、というようなことでした。しかし、私としては秀吉を失って気弱になっているところでしたし、利家夫人のまつさまが側にいて欲しいと思い、とりあえずは大坂城の西の丸に住むことにいたしました。家康さまと天下のまつりごとを一緒にみるというのは、私にとって少し荷が重すぎました。

▲「満開の桜の下で秀吉と過ごしたときが懐かしい…」イラスト:ウッケツハルコ

※1 それまで日本には、卑しまれた身分とかがなかったわけでないが、それを厳しく固定的なものとし、過酷な同和問題を生じさせたのは、江戸時代になってからだとされる。

※2 二度目の朝鮮出兵では、日本軍が「朝鮮の人々の耳や鼻をそぎ取った」と伝えられている。これは、日本まで海を越えて首を持って帰るのは手間がかかるため、手っ取り早く鼻で戦功の検分(討ち取った敵の評価)を行っていたもので、「罪もない女子供の耳や鼻まで取った」と言われているが、もしそういうことがあったら「手柄の虚偽申告」なので奨励されたはずがない。そぎ取られた耳を集めた「耳塚」が朝鮮各地に作られているが、朝鮮軍や中国(明)軍は討ち取った敵兵の耳で戦功の検分を行っていたが、日本では鼻なので混同されているようだ。

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