五木寛之が60年も「持続」しているラジオへのこだわり

コロナ禍の状況で不要不急なモノ・コトが存在価値を否定されていく――。そのことが息苦しくてたまらなくなる、そんな柔らかい心の人たちの耳元で、五木寛之氏は「続けよう。捨てないでいよう」と囁きます。20代の後半から、作家として多忙な時期でも決して辞めなかった深夜のラジオ語りは、60年経った今も続けています。人生の時計と同じ時計で物事を続ける。そんな感覚が今、求められているのかもしれません。

※本記事は、五木寛之:著『捨てない生きかた』(マガジンハウス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■ラジオへのこだわりも「持続する生きかた」

▲ラジオへのこだわりも「持続する生きかた」 イメージ:princeoflove / PIXTA

今日までの自分の暮らしを振り返ってみて、ふと笑い出したくなるときがあります。それは、なぜか「捨てない」という生きかたが、無意識のうちに続いてきていることです。

最近、ポストコロナへの期待として、「サスティナブル」という言葉がよく使われるようになりました。「持続可能な」という説明がついていることもありますが、要するに長く続くことを期待する表現でしょう。

モノもコトも、長く持続するところに大事な意味があるような気がするのです。振り返ってみると、私の歩いてきた道も、持続することにずっとこだわり続けてきたような気がしてなりません。

とにかく捨てない。愚直にそのことを続ける――。

そこにどんな意味があるかはわかりませんが、持続する生きかたが自然と身についてきた人生でした。

たとえば、ラジオへのこだわりもそうです。テレビがメディアの王座を占めていた時代、ラジオの世界はどこか取り残されたような気配がありました。SNSの時代ともなれば、なおさらです。

しかし、私はラジオの黄金時代を生きた人間です。仕事としても、深く関わってきました。

大学を横に出て(中退のこと)マスコミの末端に関わる仕事についたのは、ラジオ関東という当時の新しいラジオ局での仕事でした。

やがてTBSやNHKで、放送作家の道を歩むようになります。当時はまだ構成作家などという名前はありませんでしたが、永六輔や野坂昭如、井上ひさしなどの気鋭の書き手がそろってラジオから巣立っていった時代でした。

私が構成していたNHKの番組『夜のステレオ』では、当時ピカピカの新人アナだった下重暁子さんが、ナレーターを担当してくれていたことも懐かしい思い出です。

■人との縁を捨てない。いったん始めた仕事も捨てない

やがて作家として小説を書くようになったあとも、私はラジオにこだわり続けていました。TBSの夜の番組『五木寛之の夜』は、自作自演の夜の番組でした。同じくTBSで『小沢昭一的こころ』に出演していた故・小沢昭一さんとは、よく深夜のラジオ局のトイレで顔を合わせたものです。

この番組は二十五年続けました。作家として、気が狂うほど多忙な時期でも番組は死守したつもりです。〈深夜の友は真の友〜〉というナレーションを憶えていらっしゃる方もおられるかもしれません。

その番組が終わったあとも、ラジオの世界とは離れませんでした。NHKの『ラジオ深夜便』に移って、いま現在も夜のトークを続けています。

二十代の後半から今日まで、六十年間ずっとラジオに関わり続けてきたのです。

原稿を書くほうも「持続すること」を大事にやってきました。『日刊ゲンダイ』というちょっと過激な夕刊新聞の連載コラムは、創刊以来四十六年間ずっと休まず続けています。「世界の新聞界で最も長期にわたるコラム」としてギネスの認定を受けたのは、すでに二十年ちかく昔のことでした。

自慢話のようで気が引けるのですが、私が選考委員をやっている九州芸術祭文学賞は五十余年、泉鏡花文学賞の選考委員は四十九年続けています。

長くやればいい、というものではないことはわかっています。しかし、一つのことを投げ捨てずに続けることが私のモットーです。もう無理だと自分で思うようになれば、いつでも身を引くつもりですが、『ラジオ深夜便』の仕事も当分は続けることになるでしょう。

「捨てない」というのは、そういうことです。モノを溜め込むだけではありません。人との縁も捨てない。いったん始めた仕事も捨てない。書く力があるあいだは書き続ける。命ある限りは生き続ける。そんな感じです。

いずれメディアの表舞台からリタイアしたときは、古いモノたちや資料に埋もれて残りの日々を大事に過ごしたいと思うのです。

▲いったん始めた仕事も捨てない イメージ:naonao / PIXTA

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