【どうする家康】怖いけど…「兄貴」と慕っていた信長との深いつながり
2023年01月23日 11時00分WANI BOOKS NewsCrunch
NHK大河ドラマ『どうする家康』の第1・2回の放送が終了し、すでに多くの反響がSNSを中心に広がっています。大河ドラマのストーリーは史実に沿って進展するため、歴史の知識を深めると、ドラマをもっと楽しむことができます。
今回の記事では、第1・2回ではあまり描かれなかった徳川家康の幼少期、そして織田信長との関係性についてをピックアップし、歴史的な背景を説明したいと思います。
■苦難に満ちた家康の幼少期
天文11年(1542)12月26日、松平元康こと家康は、三河国の大名である松平広忠の嫡男(長男)として生まれました。いわゆる「お坊ちゃま」ですが、幼少期における家康の人生は苦難に満ちたものでした。
家康の祖父である清康が家臣に殺されたことが、三河国が混乱するきっかけになります。清康が暗殺されたとき、家康の父・広忠は10歳でした。三河国の混乱に乗じて国境を接する尾張国は、三河国への侵入を繰り返すようになります。
このままでは国が保ちません。そこで三河国は、東の隣国である駿府国に保護を求めます。今川義元が率いる駿府国と、清康を失って混乱している三河国では、対等な同盟など結べるはずがありません。天文17年(1548)、6歳になった家康は、今川家の人質として駿府国に送られることになります。
「いずれは三河国を支配したいが、屈強な三河兵を敵に回すのは得策ではない。尾張国との戦で三河国を消耗させ、弱った段階で併合すればよい」
このとき、義元はこのように考えていたと思われます。
駿府国に行く家康を護衛したのが戸田康光という人物になります。この康光が悪者でした。陸路で駿府国に入るのが本来の計画でしたが、康光は当日になって船の移動に切り替えます。船が向かったのは駿河湾ではなく、尾張国の熱田でした。家康は拉致され、尾張国の大名である織田信秀に売り渡されてしまいました。ドラマ(第2回)でも、家康の護送・誘拐のシーンが描かれていました。

▲萬松寺所蔵の織田信秀木像 出典:Wikimedia Commons
家康を拉致した信秀は、家康の父・広忠に対して「尾張の味方になれ」という条件を提示します。すでに今川氏との同盟を済ましている広忠は信秀の提案を拒否。悲しいですが「子どもはまた作れるが、そもそも国が滅ぼされたら何も残らない」という判断だったのでしょう。
広忠の拒否を受けて信秀は激怒しましたが、いつか外交カードとして使えると考え、家康を生かしておくことにしました。家康は尾張に2年間留まることになります。このとき14歳になる信長と接点があったと思われます。
父・広忠は家康を断念しましたが、家臣の三河衆は家康の奪還を諦めませんでした。信秀の長男・信広がいる安祥(あんしょう)城を攻め落とし、信広を人質とすることに成功。交渉の末、信広と家康の人質交換に成功します。
■駿府国の「植民地」になった三河国
三河国に戻ってきた家康ですが、すでに父である広忠は亡くなっています。24歳の若さでした。そして、本来なら人質になる予定だった駿府国に送られることになります。家康が正式に人質になったことで、言葉は悪いですが、三河国は駿府国の「完全な植民地」となったのです。
今川家から来た代官が岡崎城に入り、三河国の年貢を管理します。ドラマでは、岡崎城の代官である山田新右衛門として、お笑いコンビ・キャイ〜ンの天野ひろゆきさんが演じていました。天野さんは岡崎城がある岡崎市の出身です。
三河国で取れた米は、三河衆には行き渡らず駿府国に送られたため、三河衆はとても貧しい状態に置かれます。三河の人々が貧しい生活を送っている光景は、ドラマ(第1回)でも描かれていましたが、その原因は今川氏に年貢を横取りされていたからなのです。
しかし、この屈強をバネにした三河兵は抜群の強さを誇ります。三河兵1人は、尾張兵3人に匹敵すると言われたほどです。先ほども少し触れましたが、今川義元が三河国と同盟を結んだ理由は、三河兵を味方につけて酷使したかったからになります。
一方、今川氏の人質になった家康は、三河国では身に付かない教養を手にします。戦国屈指の軍師である太原雪斎(たいげんせっさい)から、家康は学問から軍略まですべてを学んでいます。
孔子の『論語』や孫氏の『兵法」など中国古典も読みこなしたため、戦国三英傑のなかでも漢文がすらすらと読める家康が、最も教養が高い人物になるでしょう。のちに徳川幕府を築き、約260年にも及ぶ「徳川の平和」を維持できたのは、家康の高い教養があってこそです。
『鎌倉殿の13人』の最終回では、冒頭シーンで書物を読む松本潤さん演じる家康がサプライズ出演しました。このとき読んでいたのは鎌倉時代を描いた『吾妻鏡』になります。家康の愛読書であり、家康の生涯にわたるヒーローは源頼朝だったそうです。「頼朝のように武士が主役となる幕府をいつか再現したい」。家康が小さな頃から抱いていた理想だったと言われています。
■家康は信長を慕っていたのか?
家康と信長の関係性を見ていくと、どうやら家康は信長を信頼していたことが想像できます。その理由として、固く結ばれた信長との同盟関係があります。
桶狭間の戦いで今川義元が討死したあと、家康は今川氏との関係を断ち、信長と同盟を結びます。この信長との同盟は生涯にわたり強固に守られることになります。戦国時代では極めてめずらしいことです。
家康が尾張国に2年間滞在したとき、信長との交流があったことを先ほど説明しました。この2人の関係について述べた史料はありませんが、ドラマでは、信長によって家康は激しいイジメ?を受けていました。
しかし実際は、このときに家康と信長は信頼関係を築いたのではないか、と言われています。信長は家康を弟分として可愛がり、家康も信長を兄貴として慕ったため、この思いが強固な同盟関係としてつながったと考えられています。

▲三宝寺が所蔵する織田信長とされる肖像の複写写真 出典:Wikimedia Commons
戦において家康と信長はたびたび共闘し、多くの戦果を上げています。天正10年(1582)、家康と信長の連合軍は武田家を滅ぼし、甲斐国は織田領になります。
安土城に招かれた家康は、信長から相当な持てなしを受けたそうです。気をよくした信長は「京都と大阪へ旅行に行ったらどうか。ワシもあとで行くから、向こうでメシでも食べよう」と家康に提案します。武田家を滅ぼし、ホッとしている家康は了承しました。
家康が大阪の堺を見物しているとき、信長が本能寺で討たれたという情報が入ります。「本能寺の変」当日の午後、京都において家康は信長と会食する予定だったのです。兄貴である信長の死によって、家康はかなりのショックを受けたと伝えられています。
現時点において、信長は完全な悪役としての立場ですが、今後も悪役として貫かれるのか、それとも違う一面を見せるのでしょうか。そして本能寺の変は……。
今までのところ、家康は弱々しく、優柔不断なお坊ちゃまとして表現されています。これからドラマを通じて、どのように家康は成長していくのか。また瀬名との関係も気になります。次の放送に向けて、楽しみが募るばかりです。
〈Sea The Stars〉
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