旅館業務では飯が食えない…品川の旅籠屋が女郎屋化していった事情

■吉原「北里」に対するのが、品川「南里」

品川は江戸四宿のひとつであり、東海道の一番目の宿場だった。同時に、江戸の男の歓楽街でもあった。

宿場なので、品川の旅籠屋(はたごや)は、飯盛女と称する遊女を置くことを許されていた。そのため、飯盛女を置いた旅籠屋は事実上の女郎屋だったのである。

吉原遊廓を「北里」や「北国」と呼んだのに対して、品川は「南里」や「南国」と呼ばれ、品川はなにかにつけて吉原と対比されたほどだった。

▲図1『岡場所考』(石塚豊芥子:編/安政4年) 国会図書館:蔵

図1には品川が描かれているが、東海道の両側に女郎屋(飯盛女を置いた旅籠屋)が記されている。

現在、東京都品川区の京浜急行北品川駅の前に北品川本通り(旧東海道)が走っている。いまは商店街となっているこの通りの両側に、図1のように女郎屋が軒を連ねていた。

また、埋め立てが進んだ現在では想像もできないが、品川のあたりでは東海道は海(東京湾)のすぐそばを通っていたのがわかる。

本来、品川は道中奉行から、宿場全体で五百人の飯盛女を置くことを認められていた。

天保期(1830〜44年)、飯盛女を置いていない旅籠屋は十九軒なのに対し、飯盛女を置いた旅籠屋(事実上の女郎屋)は九十二軒あった。

また、飯盛女が定員の二倍以上いるのは公然の秘密だった。

品川が歓楽街としていかに繁盛していたかがわかろう。

▲図2『幕末日本図絵』(アンベール:著/1870年) 国際日本文化研究センター:蔵

図2は、旅籠屋の留女(とめおんな)と呼ばれる客引きが、男を引っ張り込もうとしているところである。しかし、旅人に宿泊を勧めているというより、女郎屋としての客引きであろう。

というのも、品川は江戸市中からあまりに近いので、旅人が泊まることは滅多にない。

そのため品川の旅籠屋は、本来の旅館業務ではやっていけなかった。女郎屋化せざるを得なかったのである。

前述したように九十二軒の旅籠屋が飯盛女を置き、女郎屋化していた。

図3は、旅籠屋の玄関の光景。飯盛女が堂々と、顔見せをしていた。

その前を、大名行列などが進んでいたのである。

▲図3『道笑双六』(芝甘交:著/天明6年) 国会図書館:蔵

○今に残る品川の痕跡

北品川本通り商店街
かつて、この通りに女郎屋が軒を連ねていたという。現在も個人商店が多く、風情を残す(編集部撮影)

北品川駅
京急線。品川駅から1駅で歩いていける距離である(編集部撮影)

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