下剋上時代にあって“奇跡的”な一族の初代・北条早雲に迫る!

北条氏というと、室町時代に執権として将軍を支えた北条氏を想起する人が多いだろうが、ここで紹介するのは戦国時代の幕を開けたともいえる小田原の北条氏。神奈川県知事として地方の首長をつとめた松沢成文氏によると、北条氏5代100年にわたる統治は、戦国武将としての実力はもちろん、領民のための制度・政策の立案と実行、自らを律する家訓の徹底、そして100年間ほぼ「内輪もめ」にあたるものがない、という一族の結束の固さは特記に値するという。地味ながら実はすごい北条一族の初代・早雲について紹介しよう。

※本記事は、松沢成文:著『北条五代、奇跡の100年』(ワニ・プラス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■無用な争いがなかったために地味な印象

実力は充分ながら今ひとつ派手さがないために、なかなか注目されない戦国大名――それが関東の雄「北条氏」だ。

北条氏とは、しばしば“北条五代”とも呼ばれるように、初代・北条早雲(1456~1519)、二代・氏綱(1487~1541)、三代・氏康(1515~71)、四代・氏政(1538~90)、五代・氏直(1562~91)のおよそ100年にわたって、現在の関東地方の大部分を治めた一族のこと。

▲北条家一族略系図 (『北条五代、奇跡の100年』より)

その歩みを駆け足で追えば、伊豆と相模を足掛かりに戦国大名の先駆けとなり、その後は武蔵・下総・上野と領国を拡大して関東の覇者となった。そこに至る過程は、室町幕府の旧体制を打破し、上杉謙信や武田信玄の関東侵略を退け、徳川家康と同盟する。しかし、最後には天下統一を目指す豊臣秀吉に敗れ滅亡してしまう。

各時代に各地域で戦国の実力者たちと堂々と渡り合う一方で、先進的な領国経営を確立し、関東に「万民」の理想の国を創るという理念と志を掲げた類稀な戦国大名。それこそが北条氏なのだ。

そうした北条氏の真の実力、他の戦国大名にはないユニークな面については、いろいろとあるが、例えばその1つとして、北条五代の親子・親族そして家臣のチームワーク、結束力の高さをあげることができる。

戦国時代は、目の前の敵を倒すことが第一の実力勝負の時代。一族のなかでも、下克上や謀反、内乱が絶えなかった。事実、先にあげた織田氏にせよ、武田氏や上杉氏にせよ、内乱によって滅亡したり、衰亡につながる混乱へ陥っている。

そんな乱世のなかで、北条氏は五代100年にわたり、内乱がまったく起こらず、一族と家臣の役割分担・連携協力が見事に確立されていた。これはまさに“奇跡”というべきで、他の戦国大名にはない高い統治能力を発揮していたからだ。

しかし一方で戦国という枠組みにあっては、たとえ内紛といえども派手な戦いごとがないと、どうしても地味な印象になる。その点、こうした北条氏の堅実で、無用な争いのない政権運営は、数ある戦国ドラマのなかで目立たない原因になっているように思う。

それぞれ個性の違う5人だが、ここでは初代・北条早雲を紹介しよう。

■北条早雲の生い立ちとその生涯

北条早雲の父は、備中荏原荘(現在の岡山県井原市)300貫を領した、高越山城主の伊勢備中守盛定といい、母は室町幕府の政所執事を務めた伊勢貞国の娘であった。通称は伊勢新九郎で、出家してからは伊勢宗瑞という法名もある。

早雲の姉が駿河守護・今川義忠に嫁いだことから両家は深い縁で結ばれるが、今川家の家督争いに際し、早雲は調停にあたりこれをまとめるなどして力をつけ、今川家の家臣となる。そこで興雲寺城の城主となったことが、戦国大名・北条早雲の第一歩だった。

早雲は明応2年(1493)の秋頃、十一代将軍の足利義澄から討伐の命を取り付けて伊豆に侵攻し、堀越公方を襲って茶々丸を敗走させる。折も折、古河公方と山内・扇谷の両上杉家の合戦が激化し、伊豆の国衆たちが出払っているのを「好い時節の到来」と見た電撃的な作戦だった。

これが北条早雲による“伊豆討入”であり、戦国時代の幕開けとされている出来事だ。

この伊豆攻めには、今川氏親も葛山城主の葛山春吉らを援軍に出して協力しており、以後しばらくの間、早雲は氏親と密接な協力関係を持って支配領域の拡大を図っていくことになる。

伊豆討入の成功と前後して、事実上、伊豆の支配者となった早雲は、この頃から伊豆(豆州)国主と認知されるようになる。明応4年(1495)には居城を韮山城(静岡県伊豆の国市)に移し、伊豆の統治に着手している。

まずは税制改革の実行だ。当時、どの国の領民も重税にあえいでおり、年貢米が五公五民ならば“仁政”といわれ、なかには七公三民という酷税さえ珍しくなかった。これに対し、早雲は重い税制を廃して四公六民の租税を定める。すると領民は歓喜し、茶々丸の暴政に苦しんでいた伊豆の武士や領民は、たちまち早雲に従い、有力国衆も家臣に加わった。

▲北条早雲公像 写真:PIXTA

■地震・津波・疫病を「民の敵」として戦った

ところが、茶々丸を滅ぼした直後の明応7年(1498)8月25日の朝8時頃、推定M8・5とされる大地震(明応地震)が発生。大津波が広く紀伊(和歌山県)から房総の海岸を襲い、南海から東海地域で数万人という犠牲者が出る。

今日でいう南海トラフの巨大地震と見られる地震で、当時まだ淡水湖だった浜名湖は海岸線がえぐられて、現在のように太平洋と繋がったとされ、鎌倉でも高徳院の大仏殿が津波により破壊された。伊豆にも、西伊豆や沼津などへ10~30mの大津波が押し寄せ、被害は甚大となった。

地震や台風などの自然災害は、現代でも政権担当者にとって予期しがたく、対応に苦慮する惨事である。ましてや500年以上も前のこと、その混乱は大変なものだったであろう。しかし早雲は、この大災害も領国統治を強化するチャンスと果敢にとらえ、大地震からの復興と伊豆の被災者の救済に努めることで、民衆の支持を得ていく。

こうした積極的な撫民・救恤(きゅうじゅつ)政策は、前述の伊豆討入の当初から行われていた。ある時、一帯の村々で悪性の風邪が流行し10人中8~9人が死んでいる、という惨状があった。人々が散り散りになっていたところ、薬を取り寄せ、医師や家臣に負傷者や病人を介抱させたことで、山に逃げていた人々も早々に村へと戻り、早雲の配下に加わったという。

このあたりの心理を、後世の記録は早雲自身の言葉を引いて次のように書き綴っている。

「情けをかけるのは人のためにではない。己れの器量が計られているのだ。彼らを見捨てて敵に向かうならば、病人はすべて死んでしまうだろう」

戦というのは兵卒の力だけでなく、これを支える非戦闘員の陰になり日向になりの協力なくして、勝利はおぼつかない。その兵卒にしても、当時は完全な兵農分離ではなく、平時には田を耕し戦時には槍を取るという時代であり(完全な兵農分離は織田信長以降のこととされる)、一見、遠回りの撫民政策が持つ効果には非常に大きいものがあった。

事実、この疫病救済に際して、農民たちは「この恩返しをいつになったらできるだろう」と、積極的に早雲に帰順したといわれており、のちの領国経営に有利に働いたことは間違いない。こうして早雲は武力のみならず、領国経営にかかわる民政の充実も図りながら伊豆平定を進めていくのである。

明応4年(1495)9月、早雲の軍勢は一気に小田原城を攻め落とし、早雲は相模進出の拠点とすべく小田原城奪取に成功。策士早雲の恐るべき行動力と、戦国の乱世らしいゲリラ戦術は、当時の語り草となったのではあるまいか。

さらに永正元年(1504)の立河原の戦いで山内上杉氏に大勝。

そして450年にわたり三浦を統治した名門の三浦氏をも滅ぼして、早雲は相模国東部、さらに北部津久井城の内藤氏を支配下において、相模国全域を版図とした。

さらに早雲の戦略は房総半島、伊豆諸島におよんだのだ。

▲『北条五代、奇跡の100年』より

■一族が守り続けた家訓「早雲寺殿廿一箇条」

そんななかでも早雲が重んじたのが、戦国大名の家訓の典型として広く知られた「早雲寺殿廿一箇条」である。

一、可信佛神事(神仏を信ずること)
二、朝早可起事(朝は早く起きること)
三、夕早可寝事(夜は早く寝ること)
四、手水事(万事慎み深くすること)
五、拝事(礼拝を欠かさぬこと)
六、刀衣裳事(質素倹約を旨とすること)
七、結髪事(常に身だしなみを整えること)
八、出仕事(場の状況を見極めてから進み出ること)
九、受上意時事(上意は謹んで受け、私見を差し挟まぬこと)
十、不可爲雑談虚笑事(主の前で談笑するなど、思慮分別のない行動を慎むこと)
十一、諸事可任人事(何事も適切な者に任せること)
十二、讀書事(書を読むこと)
十三、宿老祗候時禮義事(常に礼儀を弁えること)
十四、不可申虚言事(嘘をつかぬこと)
十五、可学歌道事(歌道を学び品性を養うこと)
十六、乗馬事(乗馬の稽古を怠らぬこと)
十七、可撰朋友事(友とする者はよく選ぶこと)
十八、可修理四壁垣牆事(外壁や垣根は自ら点検し、修繕を怠らぬこと)
十九、門事(門の管理を徹底すること)
二十、火事用事(火元は自ら確認し、常に用心すること)
二十一、文武弓馬道事(文武両道を旨とすること)

神仏への信仰に始まり、早寝早起き・掃除・防犯・火の用心などの家政上の注意、出仕時の主君への対応・立ち居振る舞い、読書・歌道・乗馬などの修業まで順次説かれ、最後は文武を兼備すべきことで結ばれている。素朴であるが、極めて実際的で具体的な内容を持ち、戦国武士の生き方を間近に見てとれる。

この家訓は以後、北条氏に代々受け継がれていく。質素・倹約・質実剛健という北条家の美徳はこうして生まれたのである。まさに、早雲の面目躍如だろう。

早雲寺殿廿一箇条は、戦国大名の領国統治の基本法である分国法の先駆ではないか、ともいわれている。事実、のちの評定制度でも、その戒めは用いられている。

早雲には4人の息子がいた。長男の氏綱は嫡男として、北条氏二代目当主となる。次男の氏時は、相模東部の拠点玉縄城の城主を務めた。三男の氏広は、駿河東部の国衆葛山氏を養子継承した。氏時、氏広はともに当主氏綱を立てて、領国経営の発展を強力に支援していく。さらに四男の宗哲は、幼少時から仏門に身を置いて箱根権現別当職を継承し、政治面のみならず精神面から氏綱、そして三代氏康まで支え続けたのである。

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