【本棚を探索】第16回『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』管賀 江留郎 著/濱口 桂一郎

【本棚を探索】第16回『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』管賀 江留郎 著/濱口 桂一郎

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■結論を普通にみせる怪著

 文庫本ながら700頁近い分量というだけでなく、その中身も「怪著」の名に値する。元は「いくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに」2016年に洋泉社から刊行された書籍で、21年に早川書房から文庫化された。原著ではいま副題になっている「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」がメインタイトルだったが、本書の中での該当部分は第13章の90頁ほどに過ぎない。そこまでの500頁余りは、戦前の浜松事件、戦後の二俣事件を中心に、「拷問王」と呼ばれた怪物刑事紅林麻雄と彼を取り巻く人々のさまざまな姿を、膨大な資料を渉猟して描き出した迫真のルポ…と言いたいところだが、そんな凡百の枠組みに収まる本ではない。

 発端は、紅林刑事の拷問を告発したために偽証罪で逮捕されて警察を辞職し、その後苦難の人生を送った同僚の山崎兵八刑事が死の直前に書き残した稀覯本『現場刑事の告発 二俣事件の真相』との出会いなのだが、そこから話は次から次に展開する。まずは紅林が戦後に大活躍する根拠となった戦前の浜松事件において、検事総長から捜査功労賞を受けた紅林は実はほとんど真相解明に貢献していなかったことを明らかにし、ではなぜ表彰されたのかという疑問を解くために、当時の司法警察をめぐる内務省と司法省の隠微な対立関係を暴く。組織の論理がいかに政策を歪めるかは筆者もいくつかの事例で知ってはいるが、このあたりの叙述は生々しい。

 その内務省が解体され、GHQの指令で自治体警察と国家地方警察に分かれたことが紅林の関与したような冤罪事件を生み出す原因だったという世に流布した伝説を、著者は一つひとつ事実を挙げて否定する。さらに、最高裁で二俣事件の被告少年に逆転無罪判決を勝ちとった清瀬一郎弁護士が、東京裁判で東条英機の弁護人となり、この裁判とほぼ同時期に衆議院議長として改定日米安保条約を可決成立させたという(なまじ人権派が無視したがる)事実の指摘、名声をほしいままにしていた東大医学部の法医学者古畑種基博士が冤罪を増幅させた所以、本件で逆転無罪判決を下した最高裁判事たちの苦難の経歴が結果的に誤判を見抜く訓練を施していたとの皮肉、等々、読者をジェットコースターに乗せて振り回すかのように次から次に繰り出される一見話の本筋からかけ離れたようなさまざまなトピックが、最後に「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という理論構成に見事に収斂されていく…と言いたいところだが、いや著者の意図は間違いなくそうなのだが、散々微に入り細を穿つ事実の集積に振り回された読者の側は、そう簡単に頭が元に戻らない。

 冒頭本書を「怪著」と評した所以だが、余りにも凄すぎる真実探求の手際の印象が強すぎて、著者が伝えたかったであろうアダム・スミス『道徳感情論』の真の意義だの、その進化心理学的意味だの、認知バイアスを克服する仕組みとしての民主政治といった、通常の本であればそれが最重要論点となるような部分がなんだかえらく「普通」にみえてしまうのだ。前回(関連記事=【本棚を探索】第13回『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』マックス・テグマーク 著/濱口 桂一郎)に引き続き、読後ふと我に返って、頭を左右に振りながら、なんだか変な夢を見ていたようだ、とぼそっとつぶやく。

(管賀 江留郎 著、早川ノンフィクション文庫、1364円)

選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎

書店の本棚にある至極の一冊は…。同欄では選者である濱口桂一郎さん、三宅香帆さん、大矢博子さん、月替りのスペシャルゲスト――が毎週おすすめの書籍を紹介します。

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