十七代目中村勘三郎“名優は大の負けず嫌い”〜灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

十七代目中村勘三郎“名優は大の負けず嫌い”〜灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

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Phanu D Pongvanit

中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)と波乃久里子の厳格な父親でもあった十七代目中村勘三郎は、現代歌舞伎界を代表する1人で、1975年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。



三代目中村歌六の末子として生まれた勘三郎は、初代中村吉右衛門と三代目中村時蔵を兄に持ち、夫人が六代目尾上菊五郎の長女(久枝)という恵まれた環境にあった。


1950年に長らく途絶えていた「中村勘三郎」の名跡を再興する形で、十七代目を襲名。没するまでの間、時代物と世話物、立役と女形、古典と新作など広い芸域を誇っていた。悪役を演じさせても、どこか憎めない愛嬌があったのは、明るく素朴な人柄のせいだろうか。


舞台では『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』の髪結新三をはじめ『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』の法界坊、『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』の筆売り幸兵衛などが当たり役だった。


正月の元旦。歌舞伎の世界は朝が早い。一般家庭だと昼近くに起きる人たちも少なくないが、歌舞伎役者は早朝に起床して年始回り。午前中いっぱいかけて、諸先輩の家を訪れる。まだ若手だった勘九郎もそうしていた。


一方、勘三郎のほうは在宅して、訪問者を受け入れる立場の人間だったが、生来の朝寝坊。昼前に人が訪ねてくると、途端に機嫌が悪くなる。ましてや嫌いな役者だと、ろくにあいさつも交わさない。


役者連中もそのへんは十分に心得ているから、勘三郎宅への年始回りは最後のほうにする。昼すぎを狙っていけば、打って変わって快く迎えてくれる。


勘三郎は無類の麻雀好きだった。その血筋(?)を勘九郎と波乃も受け継いでいるが、勘三郎のほうは単に牌を握っていれば満足というタイプではなかった。自分のお気に入りの人間でなければ、一緒に麻雀卓を囲まない。


卓を囲むのは下手な人と勝たせてくれる人

正月の勘三郎宅では、来客たちがあちこちで麻雀を打ち始めるのが恒例だった。それだけ麻雀卓をそろえていたのだから、まさに雀荘並みと言える。


好き嫌いが極端な勘三郎は、正月麻雀においても厳しい人選をする。同卓を許されるタイプは、ほぼ二つに分けられた。


一つは、自分より絶対に麻雀が下手な人であり、もう一つのタイプは、下手ではないが最終的には勝たせてくれる人だった。それも、わざと振り込んでくれるのではなく、好勝負を繰り広げた揚げ句、勘三郎に花を持たせることのできる人に限られた。


要するに極端な負けず嫌い。子供みたいに無邪気でわがままな面が勘三郎にはあった。舞台では完璧な名人芸を披露する大役者も、素顔は人間くさかった…。これも愛嬌だろう。


勘三郎お気に入りの麻雀メンツの1人が、三代目市川左團次であった。勘三郎より年長の左團次は、勘三郎の捨て牌でアガれるのに気がつかないふりをして、平気で見逃してくれる。


そのことを後で知った勘三郎は、破顔一笑して「だから、あの人のこと好きなんだよ」。


女性のメンツで勘三郎のひいきは、女優の森光子だった。たまたま風邪をひいていたため、寝正月をすごしていた勘三郎を森が訪ねたときのこと。突如として「森さんがみえたって?」と、うれしそうな表情に変わり、布団から抜け出してきたという。


ある日、彼女と卓を囲んだ折に、勘三郎が森に大三元を放銃した。大好きな森だから怒るわけにもいかない。だが、悔しい。


数日後、勘三郎は森が出演している芸術座に『放浪記』を見に行き、客席から舞台上の森に向かって「大三元! 大三元!」と叫んだ。このイタズラに森は吹き出したまま、次のセリフが言えなかったという。


葬儀の晩に霊前で追悼麻雀

勘三郎の長男は「勘九郎坊や」こと、のちの十八代目中村勘三郎だが、初舞台は満4歳を目前にした日、時の皇太子(現上皇)殿下御成婚で日本中がにぎわうさなかであった。


勘九郎の桃太郎に父の勘三郎が鬼ヶ島の鬼の役、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)と六代目中村歌右衛門が共演するという、こちらも祝賀ムードの豪華な舞台だった。


テレビはかわいくもやんちゃな名子役ぶり≠発揮した勘九郎を一躍有名にした。テレビという媒体でスターになった最初の歌舞伎俳優と言える。


子役の年齢から脱した勘九郎が成長した姿を披露し、世間を驚かせたのが、13歳で父と踊った『連獅子』だった。高名な教育家が、勘九郎の芸への取り組みに感心して、これぞ理想的な親子の在り方であると語っていたという。


梨園きっての麻雀好きとして有名だった勘三郎は、車で移動中も同行スタッフと車内で卓を囲んでいたほどだった。


そんな父だからと、葬儀の晩は霊前で卓を囲もうということになり、勘九郎は故人と親しかった前出の森、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)、十二代目市川團十郎の3人を誘った。すると、いざ始めようとしたときに、遺影が倒れて卓のそばまで落ちてきた。


「(勘三郎は)自分もやりたくてしょうがないんだろうね」と、卓を囲んだ4人で故人を偲ぶことしきりだったという。


(文中敬称略)


十七代目中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう)

1909(明治42)年〜1988(昭和63)年。本名は波野聖司(なみの・せいじ)。1916年に三代目中村米吉を名乗って初舞台を踏み、1929年に四代目中村もしほ、1950年に十七代目中村勘三郎を襲名する。重要無形文化財保持者(人間国宝)。


灘麻太郎(なだ・あさたろう)

北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。


【画像】


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