地動説の提唱者コペルニクスの誕生日(1473年2月19日)

地動説の提唱者コペルニクスの誕生日(1473年2月19日)

コペルニクス生誕から548年

 古代ギリシア時代、宇宙がどのような構造をしているかについて様々な議論がありました。地球が宇宙の中心であるという説、太陽が宇宙の中心であるという説、太陽も地球も宇宙の中心ではないという説などが提唱されていました。さまざまな説の中で主流となったのは、地球が宇宙の中心に静止しており、全ての天体が地球の周りを回っているとする天動説(地球中心説)でした。

 紀元前4世紀のエウドクソスは、宇宙の構造として地球を中心として回転する天球を考えました。この天球は27個あり、それぞれの天球に恒星、太陽、惑星などが貼り付いています。また、それぞれの天球は回転速度や回転方向が異なり、これによって天体の動きの違いや逆行する天体の動きを説明することができました。これをエウドクソスの同心天球説といいますが、後にアリストテレスの宇宙論に取り込まれました。アリストテレスは一番外側の恒星天球の外に「不動の動者」という天球の動力源があり、その動力が外側の天球から内側の天球に伝わっていくとし、56個の天球から成る宇宙像を考えました。自然科学的な解釈が加えられたことによって、天動説はますます支持されるようになりました。

 紀元前3世紀のサモスのアリスタルコスは、宇宙の中心は太陽で、地球は自転しながら太陽の周りを公転しているという地動説(太陽中心説)を提唱しています。しかし、アリスタルコスの説が受け入れられることはありませんでした。

 天動説を体系的にまとめあげたのは紀元2世紀に古代ローマのアレキサンドリアで活躍したクラウディオス・プトレマイオスです。プトレマイオスはエウドクソスとアリストテレスの同心天球説をさらに発展させた宇宙像を「アルマゲスト」という天文学の専門書にまとめました。「アルマゲスト」は多くの学者に読まれ、天動説は不動なものとなり1000年以上に渡って支持され続けました。

 「アルマゲスト」の発表からおよそ400年後の1543年、ポーランド出身の天文学者・カトリック司祭のニコラウス・コペルニクスは70年の人生の幕を閉じようとしていました。前年に脳卒中で倒れて半身不随になっていた彼の手元に一冊の本の校正刷りが届きました。この本こそコペルニクスが半生以上に渡って研究をした地動説を解説した「天球の回転について」でした。

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コペルニクスと「天球の回転について」の宇宙像

 コペルニクスは1473年2月19日に生まれました。10歳の頃に両親と死別しており、コペルニクスの兄弟は叔父に引き取られました。コペルニクスは叔父の要望により司祭となる道を選び、1491年にポーランドのクラフクのヤギェウォ大学に入学しました。ここでコペルニクスは天文学者のアルベルト・ブルゼフスキ教授に出会いました。ブルゼフスキ教授は月の軌道を精密に求め、世界で初めて月の軌道が楕円であることを突き止めています。そして、当時主流だった天動説に対して懐疑的な考えをもっていました。ブルゼフスキ教授の考えはコペルニクスにも影響を与えました。

 1498年、コペルニクスはドイツの天文学者レギオモンタヌスが「アルマゲスト」をギリシア語からラテン語に訳した「アルマゲストの要約」を入手し、天文学を本格的に学び始めました。当時、天空は真円を描いて動き続け、その円の中心に地球が存在しているというアリストテレスの天動説が主流でした。コペルニクスはプトレマイオスの宇宙像がアリストテレスの天動説に従っているかを調べたろころ、太陽をはじめとする多くの天体の動きを再現することはできるが、複雑な動きをする惑星の動きについては十分に再現することができないことに気がつきました。

 コペルニクスは天動説に従って惑星の動きを再現する方法を考えました。そして、火星、木星、土星の動きについては再現することができました。しかしながら、水星と金星の動きを再現しようとすると、全体の辻褄が合わなくなりました。コペルニクスは地球が他の惑星と同様に太陽の周りを回っていると考えるとこの矛盾を解決できることに気がつきました。そして、惑星の動きが複雑に見えるのは地球が動いていることが原因であることを突き止め、地球を中心とする同心天球説の考えを排除し、地動説(太陽中心説)を提唱しました。

 さて、地動説と言えば、天動説を否定し地動説を支持したガリレオ・ガリレイに対する1616年からのは宗教裁判が有名ですが、その150年以上前にコペルニクスが地動説を発表したときにはローマ教皇庁からの反対はありませんでした。コペルニクスの「天球の回転について」の出版を支援したのは教会に関わる人たちでした。当時、地動説があまりにも滑稽に見えたからからかもしれません。ことさら相手にしなくても教理に対する脅威にはならなかったのでしょう。また、当時占星術は重要な学問であり、惑星の動きを予測するには地動説で考えた方が簡単でした。そういう意味で、地動説は誤りであるが「天球の回転について」は便利な本だったのです。

 その後、天文学が発展し、いろいろな観測や研究が進められるようになると、地動説を支持するような事実が出てくるようになりました。こうなると地動説が天動説を脅かし始めたのでしょう。

 1616年にガリレオに対する第一回目の裁判が行われると、「天球の回転について」はローマ教皇庁によって閲覧禁止とされ、以降コペルニクスの地動説は禁じられました。その後「天球の回転について」そのものは天体の動きを容易に正確に予測するための数学的な仮設であり教理に反するものにはならないと判断され閲覧が許されました。

 ガリレオの有罪は1992年に撤回されていますが(ココログ 夜明け前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオに謝罪(1992年10月31日)」)、ガリレオの宗教裁判は地動説対天動説という単純なものではなく、ガリレオと彼を取り巻く人たちの人間関係が複雑に絡んでいたと考えれています。この話は別の機会にでも。

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