『薔薇の名前』の重要テーマ「笑い」をめぐる論争

『薔薇の名前』で描かれる最初の事件は、細密画家(ミニアトーレ)のアデルモの死です。修道院長に謎の解明を依頼されたウィリアムは、「異形の建物」と表現される図書館に赴き、アデルモが生前作業していた写本を見せてほしいと図書館長のマラキーアに頼みます。ここで、『薔薇の名前』の大きなテーマの一つである「笑い」についての議論が展開されます。イタリア文学研究者で東京外国語大学名誉教授の和田忠彦(わだ・ただひこ)さんが読み解きます。




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アデルモの机に案内されたウィリアムとアドソ。ふたりはそこに、文字の周囲にすばらしい細密画が施された詩篇読本(サルテーリオ)のページを見つけて感嘆します。描かれていたのは、「野兎を前にして逃げ出す猟犬、獅子を狩る牡鹿」や「頭だけは馬の人間の姿をした生きもの」などさまざまな「逆立ちした生きもの」たちでした。


その詩篇読本(サルテーリオ)の余白には、わたしたちが慣れ親しんだ感覚とは逆の世界がひろがっていた。それはちょうど、真実の物語と一般に規定される物語の境界に、それと深く結びつきながらも、驚嘆すべき謎めいた隠喩の力で、逆立ちした世界をめぐる虚構の物語が繰りひろげられてゆくようなものだった。


妖しくもいきいきとした図柄の数々は、思わず見る者の笑いを誘うものでした。

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