人々の「忘れっぽさ」に依存するディストピア

人々の「忘れっぽさ」に依存するディストピア

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隣家に引っ越してきた17歳の少女クラリスに「あなた幸福?」と尋ねられ言葉に詰まるモンターグ。この問いかけは、やりがいのある仕事に就き、愛する(はずの)妻もいて、自足していたはずのモンターグに「果たして自分は幸福なのか?」という疑問を植えつけました。そんなクラリスとの出会いに続く場面で描かれるのは、モンターグと妻ミルドレッドの破綻した家庭生活です。名古屋大学大学院情報学研究科教授の戸田山和久(とだやま・かずひさ)さんは、「この小説の中で最もいやな気分になるパートのひとつ」と評します。




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クラリスと別れ、帰宅したモンターグ。ミルドレッドが寝ている寝室に入っていくのですが、そこは闇と冷たさと死のイメージに満ちています。月も雲に隠れていて室内はまったき闇。クラリスと話していた屋外の方が明るかったほどです。そのとき、モンターグはさきほどクラリスに問われたことの答えに気づきます。「おれは幸福じゃない」。


明かりをつけないまま、部屋のありさまを心のうちに描いてみた。妻はベッドに長々と横たわっている。墓の蓋にのせられた死体のようにカバーもなく冷たく、両眼は目に見えぬピアノ線によって天井に固定され、動くこともない。そして両耳にはちっぽけな《巻貝》 ──超小型ラジオがおさまり、音響の大海の電子的波(は) 濤(とう) を、音楽とおしゃべりと音楽とおしゃべりを、彼女の眠らぬ心の岸にひびかせている。

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