なぜ「雨ニモマケズ」は国民的な文学となったのか

教職を辞した宮沢賢治は大正十五年、農村における芸術の実践という理想を掲げ、死去した妹トシが療養した実家の別荘を改装してひとり暮らしを開始。畑を耕したり、近くの村へ農業指導や肥料相談に出かけたりする日々をスタートさせます。そして八月には、羅須地人協会を立ち上げます。ときには彼を慕ってやってくる者たちと音楽の練習をしたり、レコードコンサートを開いたり、近所の子どもたちを集めて自分の童話や外国の童話を語り聞かせたりと、芸術教育の実践も試みていました。また賢治が講師となり、トルストイやゲーテの芸術の定義や、農民芸術、農民詩について語りあうなど、大学のゼミナールのようなことも行っていたようです。しかし、彼の思いは一部を除いて理解されることはありませんでした。日本大学芸術学部教授の山下聖美(やました・きよみ)さんは、賢治が理想と現実の狭間で自分の生き方を模索し続けた末に書いたのが「雨ニモマケズ」であったと考察します。




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賢治は理想に邁進(まいしん)したいと思い、その思いのもとで行動をしつつも、現実という壁に突き当たっていつも苦しんでいました。狭い世間で、名家の当主として世間体を重んじる父。さらに賢治は、幼い頃から母に「人のために生きるのス」と言われて育ったといいますが、この言葉も賢治にとっては呪縛となったでしょう。なぜなら、母が言う「人」とは、現実に生きている世間の人たちのことだからです。

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