稀代のイノベーター、曹操

曹操が打ち出した人材登用制度や文学運動は、漢帝国の政治や思想までを変容させるほどのインパクトがありました。赤壁の戦いに敗れ、自身の存命中の中国統一が難しくなったと悟った後も、旧弊を打破する新たな手法や仕組みを積極的に考案、実施していきます。早稲田大学 文学学術院 教授の渡邉義浩(わたなべ・よしひろ)さんが解説します。




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赤壁の戦いでの敗戦により、曹操生存中の中華統一は難しいものとなりました。南船北馬という言葉がありますが、曹操は強力な騎兵をすでに手中にしていたものの、中国南部での戦闘においては、水軍なしには戦えないことが明らかになりました。水軍の編成は、船をつくれば終了というわけではありません。水夫や水軍指揮に精通した将を養成しなければならないのです。翌209年には水軍の訓練を行っている曹操ですが、すでに50歳を越えた自分の寿命を考えたときに、曹操は「中国統一は難しい」と認識せざるを得なかったのです。



ここで曹操は、漢および漢を支える儒教と真剣に向き合うことになります。曹操はまず、漢の人材登用制度に異議を唱えました。郷挙里選は「孝」「廉」など、儒教的徳目に適う人間性を前提としていました。これに対し曹操は、210年に出した布告において、「唯才是挙」(才能のみを推挙の基準とせよ)との方針を打ち出しています。曹操自身、もとより人間性よりも才能を重んじる主義でありました。

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