『明暗』は「私小説」ならぬ「痔小説」

漱石の未完の絶筆『明暗』。東京大学教授の阿部公彦(あべ・まさひこ)さんが、一行目から読者を惹きつける独特なオープニング部分を引きながら、どんな作品であるのか解説します。




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『明暗』は、1916(大正5)年5月から朝日新聞紙上で連載が開始され、漱石の死去によって未完に終わった作品です。しかし遺された分量だけでも漱石作品中もっとも長大で、新潮文庫版にして650ページもの大作となっています。



主人公は津田由雄。痔を患っています。主人公の説明として「痔を患っている」と始めるのもどうかと思うのですが、小説自体がそのように始まっているので仕方がありません。冒頭部では以下のように、手術台の上の津田の様子が描かれます。


医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田(つだ)を下(おろ)した。

「矢張(やつぱり)穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、つい其所(そこ)が行(い)き留りだとばかり思って、ああ云(い)ったんですが、今日疎通(そつう)を好(よ)くする為(ため)に、其奴(そいつ)をがりがり掻(か)き落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。

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