関ヶ原の戦いは、当時の人々は「徳川×石田」ではなく「徳川×宇喜多」と認識していた!?

関ヶ原の戦いは、当時の人々は「徳川×石田」ではなく「徳川×宇喜多」と認識していた!?

宇喜多秀家(岡山城蔵)

 “天下分け目”と言われる関ヶ原の戦いはどんな争いだったかと問われれば、「徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝った」と多くの人が答えることだろう。

 ところがこれに異論を唱える研究者がいる。「宇喜多家史談会」理事の大西泰正氏だ。

「実は、当時の感覚としては『徳川家康×石田三成』ではなく、『徳川家康×宇喜多秀家』であったのではないかと考えられます」

 宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで副大将をつとめ(総大将の毛利輝元は大坂にいて参戦せず)、西軍最大の部隊を率いて最前線で壊滅するまで戦った。豊臣秀吉の猶子(準養子)で、五大老の一人でもある。しかし、それにしてはいまいち存在感が薄い。

◆関ヶ原の戦いの直前、宇喜多秀家は徳川家康に次ぐ“豊臣政権ナンバー2”だった

⇒【画像】はコチラ『備前軍記』https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1360577

「秀家の影が薄くなったのは後世になってからのこと。当時の貴族の日記などを見てみると、例えば『言経卿記』には『内府(徳川家康)が勝ち、備前中納言(宇喜多秀家)が敗北した』と書かれています。石田三成のことなど一言も書かれていない。前田利家亡き後、関ヶ原直前の時点では秀家が家康に次ぐ“豊臣政権ナンバー2”の地位にありました。五大老の中にも序列があって、書状などに名前を書く順番でわかるんです」

 それでは、江戸時代に入ってから扱いが変わってしまったということ?

「そうですね。

1 2 次へ

関連記事(外部サイト)