本田圭佑の「両手に腕時計」を“アリ”に。伝説のスタイリストが語る「第一印象の大切さ」
2023年03月03日 15時52分SPA!

企画制作会社「TOOLS」の代表を務めるスタイリストの近藤昌さん(67歳)
FIFAワールドカップカタール2022で日本はベスト16という結果を残した。今回は本田圭佑がABEMAで解説を務めて大きな話題を呼んだ。そんな彼はプレースタイルだけではなく、「両手に腕時計」など、独特のファッションも注目されてきた。
「2013年に彼が長男を抱えて成田空港に姿を見せた際や、両手に腕時計をはめるコーディネートも、私がスタイリングを担当していました」
こう話すのは、スタイリストの近藤昌さん(67歳)だ。
サッカー選手などのアスリートや芸能人・モデル、企業の経営者など、表舞台に立つ人たちのイメージに合わせた衣装を選び、個性を引き立てるのが「スタイリスト」の仕事。
TPOを意識しながらもカラーリングやブランドのチョイスなど、随所にセンスを光らせる。トレンドを見極める感度の高さも求められるだろう。近藤さんは、本田圭佑をはじめ、音楽プロデューサーの松任谷正隆、経営者の前澤友作など、数多くのスタイリングを手がけてきた。
かつてはジャニーズ事務所に所属し、その後は日本初のセレクトショップの立ち上げやクラブの運営に参画。時流を読み解く感性や審美眼など、まさに“伝説”とも呼べる存在として業界人には知られている。
さまざまな業界を渡り歩いてきた半生や、常に時代の最先端を掴む仕事術について、近藤さんに話を聞いた。
◆ジャニー喜多川からエンタメの英才教育を受ける
近藤さんの幼少期は東宝芸能学校に通いながら、舞台や芸能などのオーディションへ参加し、子役として活動していたという。そこは「世の中の縮図」だったと話す。
「小学校の頃から、大人の縦社会をすでに体験していました。年齢問わず、先輩の言うことは絶対だったので、とにかく先輩への気配りや礼儀は欠かさずに生活していたんです。加えて、エチケットやマナーについても厳しく言われまして、例えば食事をする際は肘をつくな、音を出すな、人が嫌な思いをする食べ方はやめろなど、徹底的に叩き込まれましたね」
中学2年生の頃、先にジャニーズ事務所に所属していた友人から「ジャニーズに入らないか」と言われたのをきっかけにジャニー喜多川さんと出会い、ジャニーズ事務所へ。
フォーリーブスの弟分となるグループで、8年ほどアイドル活動を経験する。
「当時、ジャニー喜多川さんに可愛がってもらいながら、エンタメの英才教育を受けていました。自分が子役の時は社会の縮図を学び、ジャニーズではエンタメを学ばせもらったことが、今の私の原点になっていると言えるかもしれません」
◆ファッションに目覚め、芸能からアパレル店員へ転身
その後、フォーリーブスのメンバーが着こなすファッションに興味を持ち、「その服、どこで買ったの?」と聞いたりしながら、ファッション好きが足繁く通うお店に出入りするようになる。
当時は、グループサウンズブーム全盛期だったが、アメリカ発のAOR(Adult-Oriented Rock)というジャンルが好きだったとか。
「AORのレコードを見ていると、日本では見たことのないファッションに身を包んだ、どこか異国情緒なスタイルがかっこよくて。情報筋をたどっていくと、どうも上野のアメ横で売られていることがわかったんです。ミウラというお店なのですが、しばらく通っているうちにスタッフと仲良くなって。『そんなに服が好きなら、アルバイトとして働きなよ』と言われ、店頭に立つようになったんです」
ミウラというお店はセレクトショップ『SHIPS』の前身で、近藤さんはそこで経験を積んだのち、渋谷の道玄坂に出店した2号店「ミウラ&サウンズ」の店舗運営を任せてもらうように。
◆“服を売らない店員”としてカリスマ性を発揮
海外から仕入れたナイキのスニーカーやレッドウィングのブーツ、豊富なレングスを揃えたリーバイスのジーンズなど、マニアックな服好きから支持されるラインナップ。知る人ぞ知るお店として繁盛した。
そこでは“服を売らない店員”として評判になり、ある種のカリスマ性を発揮していたという。
「接客の売上はお店でトップでしたし、お客さんのファッションに似合わなければ、『買わなくていい』と伝えていましたね。でもその代わりに、ファッションの着こなし方や、お客さんのスタイルに合う服のブランドを教えてあげたりして。『この人と仲良くならないと服が買えない』と思われるようになり、私を慕うお客さんが増えていったんです。その中のひとりに、今でも親交のある松任谷正隆さんもいました」
◆トレンドセッターとして若者カルチャーを牽引
ミウラ&サウンズの3号店は銀座に出店し、そこではSHIPSというロゴを入れた日本製のトレーナーを売り始めたところ大人気だった。だが、Made in USAのファッションにこだわっていた近藤さんは、方向性の違いと海外への憧れからハワイへ留学を決める。
日本帰国後は雑誌『POPEYE』のモデル兼スタイリストとして活動を始めることに。
「当時は分業ではなかったので、私とカメラマンとロケバスのドライバーしかいませんでした。そのため、スタイリングからモデル、ライティング、編集まで全てこなしていましたね。おかげでかなり大変でしたが、いろんな人脈もでき、知名度も少しずつ上がっていったんです。そんな折、西麻布に新たなお店を出す話が持ち上がりまして。
オーナーから『これからはモノを売るのではなく、アイデアを売る時代になる。お金は出すから会社を立てて頑張りなさい』と言われ、そこで創業したのがTOOLSでした。その頃はディスコブーム真っ只中でしたが、TOOLSを設立後、アイディア調査のための一環として海外に足繁く通っていた際に目にした製鉄所や、高架下でゲリラ的なパーティーを開く雰囲気が好きで。お店も『ディスコではなくクラブにしようか』というノリで始めたのが、現在のクラブの草分けと言われる『TOOL’S BAR』だったんです」
◆創業間もない頃のZOZO前澤氏との関係
セレクトショップやクラブといった、流行の最先端を捉えたトレンドセッターとして名を馳せた近藤さんだが、2000年ごろには、ZOZOの創業者である前澤友作氏との付き合いもあったという。
「ファッションECサイト『ZOZOTOWN』の立ち上げ間もない頃、前澤さんから『インターネットという空の上に街を作りたい』という想像を超えるような構想を聞いて。何か力になれればと、ECサイトに出店するセレクトショップやブランドの誘致のサポートをしていたんです。何にせよ、その頃は全く浸透していなかった『写真だけで服を売る』というのを説明しなくてはならなかったゆえ、『近藤は頭がおかしくなったのか』『近藤には気をつけろ』といった噂が流れたりと、まあ色々ありましたね(笑)。
また、前澤さんのスタイリングも最初の頃は担当していました。今では、経営者としての素質が開花し、大成功を収めていますが、今振り返ってみても、当時からエッジの効いた人だったのを覚えています」
◆第一印象が大切。本田圭佑「両手に腕時計」が“アリ”だったワケ
また、近藤さんがスタイリングを手がける大物のひとりが、冒頭でも紹介した本田圭佑だ。プロサッカー選手の枠にとらわれない活動の広さやアグレッシブな姿勢は、常に注目の的となっている。
「本田さんはいろんな内面を持っていて、ニュース性や話題性をファッションで表現できるように意識しています。子供を抱えて空港に姿を見せたファッションや両手に腕時計をはめるコーデも、私がスタイリングを担当しました。センセーショナルかつ印象に残るような存在だからこそ、ファッションでいかに伝えることができるかを常に考えています」
長年、スタイリングの仕事に関わり、さまざまな人の“おしゃれ”を手がけてきたなかで、「個々の持つセンスを引き出すコツ」みたいなものはあるのだろうか。
近藤さんは「30秒で人の性格や雰囲気がわかってしまうので、第一印象を決めるファッションがとても大事になる」と説明する。
「その人の魅力や考え方を汲み取り、深掘りしていき、どんなファッションを提案すればいいかを紐解いていく。経営者であれば、主張していることの潔白を示す服の色や形を選んだり、芸能人であれば、衣装として着てもらうのではなく、そのまま服を着て家に帰りたくなるくらい、イメージとぴったりなものをコーディネートします。
ただ単に、流行りのブランドやハイブランドで固めても、その人の雰囲気に似合わなければ『服に着られている』ように見えてしまいます」
◆『POPEYE』時代に磨かれたスタイリング力
「ファッションは引き算とバランスが大事であり、その辺りの見極めを非常に大切にしています」
こうしたスタイリングのセンスは、「POPEYEに携わっていた頃に磨かれた」と当時を振り返る。
「POPEYEの頃から松任谷さんのスタイリストを担当していましたが、松任谷さんはあまのじゃくな人なので、おしゃれでトレンドを抑えている服を持っていても、着てくれなかったんですよ。自信を持って提案した服でも跳ね返されることが多くあったので、『どうやったら松任谷さんに着てもらえるか』を考えていたことで、自然とセンスが磨かれたのかもしれません」
◆平日はスタイリスト。週末はバリスタの悠々自適な生活
現在、近藤さんは東京から100km離れた千葉の一宮町と都内の二拠点生活(デュアルライフ)を送っている。平日は東京で活動し、週末はコーヒーを入れるバリスタとしてカフェを経営するなど、自由闊達なライフスタイルを過ごしているそうだ。
「一宮町に住まいを構えているのは、田舎の空気や水、土などに触れ、自然を味わうことで生き方に余裕が生まれるから。東京にいると、つい仕事モードのスイッチが入り、時間に悩殺されがちですが、心安らぐのどかな場所に行くとストレスから解放され、人に優しくできるようになります。思うに、東京がメタバース世界で、地方が人間本来のリアルな生活を体感できると感じていて、もっと多くの人に自然と触れ合うライフスタイルを実践してほしいなと。そんな風に感じています。
心身ともに充実した生活をベースに、今年はスタイリストの仕事以外にも注力したいと思っています。そのうちのひとつが、『The Wave』という新たなお店にクリエイティブプロデューサーとしてプロジェクトに関わっていること。かつてのTOOL’S BARのように人と人が交錯する社交の場として盛り上げていければと思っています」
時代がどんなに変わろうとも、近藤さんの審美眼はその本質を捉えるに違いないだろう。
<取材・文・撮影/古田島大介>
【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
「2013年に彼が長男を抱えて成田空港に姿を見せた際や、両手に腕時計をはめるコーディネートも、私がスタイリングを担当していました」
こう話すのは、スタイリストの近藤昌さん(67歳)だ。
サッカー選手などのアスリートや芸能人・モデル、企業の経営者など、表舞台に立つ人たちのイメージに合わせた衣装を選び、個性を引き立てるのが「スタイリスト」の仕事。
TPOを意識しながらもカラーリングやブランドのチョイスなど、随所にセンスを光らせる。トレンドを見極める感度の高さも求められるだろう。近藤さんは、本田圭佑をはじめ、音楽プロデューサーの松任谷正隆、経営者の前澤友作など、数多くのスタイリングを手がけてきた。
かつてはジャニーズ事務所に所属し、その後は日本初のセレクトショップの立ち上げやクラブの運営に参画。時流を読み解く感性や審美眼など、まさに“伝説”とも呼べる存在として業界人には知られている。
さまざまな業界を渡り歩いてきた半生や、常に時代の最先端を掴む仕事術について、近藤さんに話を聞いた。
◆ジャニー喜多川からエンタメの英才教育を受ける
近藤さんの幼少期は東宝芸能学校に通いながら、舞台や芸能などのオーディションへ参加し、子役として活動していたという。そこは「世の中の縮図」だったと話す。
「小学校の頃から、大人の縦社会をすでに体験していました。年齢問わず、先輩の言うことは絶対だったので、とにかく先輩への気配りや礼儀は欠かさずに生活していたんです。加えて、エチケットやマナーについても厳しく言われまして、例えば食事をする際は肘をつくな、音を出すな、人が嫌な思いをする食べ方はやめろなど、徹底的に叩き込まれましたね」
中学2年生の頃、先にジャニーズ事務所に所属していた友人から「ジャニーズに入らないか」と言われたのをきっかけにジャニー喜多川さんと出会い、ジャニーズ事務所へ。
フォーリーブスの弟分となるグループで、8年ほどアイドル活動を経験する。
「当時、ジャニー喜多川さんに可愛がってもらいながら、エンタメの英才教育を受けていました。自分が子役の時は社会の縮図を学び、ジャニーズではエンタメを学ばせもらったことが、今の私の原点になっていると言えるかもしれません」
◆ファッションに目覚め、芸能からアパレル店員へ転身
その後、フォーリーブスのメンバーが着こなすファッションに興味を持ち、「その服、どこで買ったの?」と聞いたりしながら、ファッション好きが足繁く通うお店に出入りするようになる。
当時は、グループサウンズブーム全盛期だったが、アメリカ発のAOR(Adult-Oriented Rock)というジャンルが好きだったとか。
「AORのレコードを見ていると、日本では見たことのないファッションに身を包んだ、どこか異国情緒なスタイルがかっこよくて。情報筋をたどっていくと、どうも上野のアメ横で売られていることがわかったんです。ミウラというお店なのですが、しばらく通っているうちにスタッフと仲良くなって。『そんなに服が好きなら、アルバイトとして働きなよ』と言われ、店頭に立つようになったんです」
ミウラというお店はセレクトショップ『SHIPS』の前身で、近藤さんはそこで経験を積んだのち、渋谷の道玄坂に出店した2号店「ミウラ&サウンズ」の店舗運営を任せてもらうように。
◆“服を売らない店員”としてカリスマ性を発揮
海外から仕入れたナイキのスニーカーやレッドウィングのブーツ、豊富なレングスを揃えたリーバイスのジーンズなど、マニアックな服好きから支持されるラインナップ。知る人ぞ知るお店として繁盛した。
そこでは“服を売らない店員”として評判になり、ある種のカリスマ性を発揮していたという。
「接客の売上はお店でトップでしたし、お客さんのファッションに似合わなければ、『買わなくていい』と伝えていましたね。でもその代わりに、ファッションの着こなし方や、お客さんのスタイルに合う服のブランドを教えてあげたりして。『この人と仲良くならないと服が買えない』と思われるようになり、私を慕うお客さんが増えていったんです。その中のひとりに、今でも親交のある松任谷正隆さんもいました」
◆トレンドセッターとして若者カルチャーを牽引
ミウラ&サウンズの3号店は銀座に出店し、そこではSHIPSというロゴを入れた日本製のトレーナーを売り始めたところ大人気だった。だが、Made in USAのファッションにこだわっていた近藤さんは、方向性の違いと海外への憧れからハワイへ留学を決める。
日本帰国後は雑誌『POPEYE』のモデル兼スタイリストとして活動を始めることに。
「当時は分業ではなかったので、私とカメラマンとロケバスのドライバーしかいませんでした。そのため、スタイリングからモデル、ライティング、編集まで全てこなしていましたね。おかげでかなり大変でしたが、いろんな人脈もでき、知名度も少しずつ上がっていったんです。そんな折、西麻布に新たなお店を出す話が持ち上がりまして。
オーナーから『これからはモノを売るのではなく、アイデアを売る時代になる。お金は出すから会社を立てて頑張りなさい』と言われ、そこで創業したのがTOOLSでした。その頃はディスコブーム真っ只中でしたが、TOOLSを設立後、アイディア調査のための一環として海外に足繁く通っていた際に目にした製鉄所や、高架下でゲリラ的なパーティーを開く雰囲気が好きで。お店も『ディスコではなくクラブにしようか』というノリで始めたのが、現在のクラブの草分けと言われる『TOOL’S BAR』だったんです」
◆創業間もない頃のZOZO前澤氏との関係
セレクトショップやクラブといった、流行の最先端を捉えたトレンドセッターとして名を馳せた近藤さんだが、2000年ごろには、ZOZOの創業者である前澤友作氏との付き合いもあったという。
「ファッションECサイト『ZOZOTOWN』の立ち上げ間もない頃、前澤さんから『インターネットという空の上に街を作りたい』という想像を超えるような構想を聞いて。何か力になれればと、ECサイトに出店するセレクトショップやブランドの誘致のサポートをしていたんです。何にせよ、その頃は全く浸透していなかった『写真だけで服を売る』というのを説明しなくてはならなかったゆえ、『近藤は頭がおかしくなったのか』『近藤には気をつけろ』といった噂が流れたりと、まあ色々ありましたね(笑)。
また、前澤さんのスタイリングも最初の頃は担当していました。今では、経営者としての素質が開花し、大成功を収めていますが、今振り返ってみても、当時からエッジの効いた人だったのを覚えています」
◆第一印象が大切。本田圭佑「両手に腕時計」が“アリ”だったワケ
また、近藤さんがスタイリングを手がける大物のひとりが、冒頭でも紹介した本田圭佑だ。プロサッカー選手の枠にとらわれない活動の広さやアグレッシブな姿勢は、常に注目の的となっている。
「本田さんはいろんな内面を持っていて、ニュース性や話題性をファッションで表現できるように意識しています。子供を抱えて空港に姿を見せたファッションや両手に腕時計をはめるコーデも、私がスタイリングを担当しました。センセーショナルかつ印象に残るような存在だからこそ、ファッションでいかに伝えることができるかを常に考えています」
長年、スタイリングの仕事に関わり、さまざまな人の“おしゃれ”を手がけてきたなかで、「個々の持つセンスを引き出すコツ」みたいなものはあるのだろうか。
近藤さんは「30秒で人の性格や雰囲気がわかってしまうので、第一印象を決めるファッションがとても大事になる」と説明する。
「その人の魅力や考え方を汲み取り、深掘りしていき、どんなファッションを提案すればいいかを紐解いていく。経営者であれば、主張していることの潔白を示す服の色や形を選んだり、芸能人であれば、衣装として着てもらうのではなく、そのまま服を着て家に帰りたくなるくらい、イメージとぴったりなものをコーディネートします。
ただ単に、流行りのブランドやハイブランドで固めても、その人の雰囲気に似合わなければ『服に着られている』ように見えてしまいます」
◆『POPEYE』時代に磨かれたスタイリング力
「ファッションは引き算とバランスが大事であり、その辺りの見極めを非常に大切にしています」
こうしたスタイリングのセンスは、「POPEYEに携わっていた頃に磨かれた」と当時を振り返る。
「POPEYEの頃から松任谷さんのスタイリストを担当していましたが、松任谷さんはあまのじゃくな人なので、おしゃれでトレンドを抑えている服を持っていても、着てくれなかったんですよ。自信を持って提案した服でも跳ね返されることが多くあったので、『どうやったら松任谷さんに着てもらえるか』を考えていたことで、自然とセンスが磨かれたのかもしれません」
◆平日はスタイリスト。週末はバリスタの悠々自適な生活
現在、近藤さんは東京から100km離れた千葉の一宮町と都内の二拠点生活(デュアルライフ)を送っている。平日は東京で活動し、週末はコーヒーを入れるバリスタとしてカフェを経営するなど、自由闊達なライフスタイルを過ごしているそうだ。
「一宮町に住まいを構えているのは、田舎の空気や水、土などに触れ、自然を味わうことで生き方に余裕が生まれるから。東京にいると、つい仕事モードのスイッチが入り、時間に悩殺されがちですが、心安らぐのどかな場所に行くとストレスから解放され、人に優しくできるようになります。思うに、東京がメタバース世界で、地方が人間本来のリアルな生活を体感できると感じていて、もっと多くの人に自然と触れ合うライフスタイルを実践してほしいなと。そんな風に感じています。
心身ともに充実した生活をベースに、今年はスタイリストの仕事以外にも注力したいと思っています。そのうちのひとつが、『The Wave』という新たなお店にクリエイティブプロデューサーとしてプロジェクトに関わっていること。かつてのTOOL’S BARのように人と人が交錯する社交の場として盛り上げていければと思っています」
時代がどんなに変わろうとも、近藤さんの審美眼はその本質を捉えるに違いないだろう。
<取材・文・撮影/古田島大介>
【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
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