“家庭を持ちたくない”男性が見た父の背中…「借金1000万円を抱えて姿を消した」

“家庭を持ちたくない”男性が見た父の背中…「借金1000万円を抱えて姿を消した」

鈴木氏

「毒親育ちの自覚はないんですけどね」
 開口一番、男性はそう言った。会社員として勤務する30代の鈴木氏だ。現在は母親と二人暮らしをしている。

「小学生時代から、私と兄が寝たころを見計らって両親の夫婦喧嘩が始まりました。寝たふりをしても、母親の怒鳴り声とか泣き声が聞こえて気になってしまうんですよね。私が中学校2年生くらいのころにはもう、父親は月に1〜2回程度しか自宅に帰ってきませんでした。父親の不在が我が家の平常でしたね」

◆消費者金融からの督促電話で母がノイローゼに

 もともと暗雲の立ち込めていた家庭がさらなる急落を見せたのは、中学3年生になってからだ。父親がした借金の催促の電話が鳴り止まない日々が続いた。

「本当に夜中3時とか4時になっても消費者金融からの督促は止まらず、母親はノイローゼになってしまいました。一度、過呼吸になって『本当に死ぬんじゃないか』と思うほど発作が続いたときは救急車を呼びました。そんな状況のなかでも、母親は『印鑑と通帳はあそこにあるから、あなたが管理してほしい。お父さんには渡さないように』と息も絶え絶え言っていましたね。

 あとから聞いた話ですが、母親は電話で『おたくの息子さん、◯◯中学校に通われているそうですね』と脅迫とも取れる言葉を浴びせられていたようです」

◆無言で20分くらいドアを叩かれた…

 父親の困窮具合は、たとえば次のエピソードに象徴される。

「あるとき、珍しく家にいた父から『お金貸してくれない?』と言われました。状況がわかっていましたし、拒否できませんでしたね。貯めていたお年玉など諸々、すべて持っていかれました。母から聞いた話では、学資保険も勝手に解約されて使い込まれていたようです。また、ご近所さんにも『1000円でいいから貸してください』などとお願いに回っていたようです」

 だが、父親がどれほど金策に走っても、闇金で作った負債をみれば焼け石に水。督促の手が緩むことはない。鈴木氏は一度だけ、ドアを隔てて業者と対峙した経験があるという。

「その日は留守番をしていて、インターホンが鳴りました。内心驚きましたが、無言を貫くと、さらに連続でインターホンを押してきます。少しするとそれはドアを直接叩く音に代わり、ドアの向こうでドンドンと拳を打ち付ける音がしばらく続きました。何か言うわけでもなく、無言で20分くらいドアを叩かれたのです」

◆“避難先”の図書館で勉強に没頭

 この体験は、現在に至るまで影響を残している。

「電話やインターホンの音が怖くて仕方がない時期がありました。現在は少し回復しましたが、それでも積極的に聞きたいとは思わない音ですね」

 もはや自宅に安全な場所などなかった鈴木氏の避難先は、図書館。読書や受験勉強に没頭し、偏差値はうなぎ登りだった。当然のごとく一流大学の附属校に合格したものの、高校生活は必ずしも薔薇色ではなかったという。

◆奨学金に加えて、特例でアルバイトを解禁してもらう

「両親は私の高校入学あたりに離婚して、私たちは借金の督促から解放されました。進学先は私立なので、母親にはかなりの負担を掛けたと思います。奨学金など貰えるものはすべて貰ったうえで、学校側には特例措置として、基本的に禁止されているアルバイトを認めてもらっていました。

 学校が終わってから清掃のバイトをして、疲れて帰ってきての癒やしは読書でした。朝方まで読みふけって、登校しても授業中は寝ているので、成績は下位のほうでした。

 当時の友人からは『不良じゃないのにやさぐれた高校生だったよね』なんて言われます。教師もきっと私の状況を知っていたので、寝ていてもあまり注意してこなかったんじゃないかと思います」

◆普通の父親とそう変わらなかった?

 籍を抜いても、波紋はなお大きい。鈴木氏の父親は、どのような人物だったのか。「記憶はほとんどない」としながらも、氏は次のように話した。

「小学生時代は公園で遊んでくれたり、釣りに連れて行ってくれたり、普通の父親とそう変わらなかったように思います。ただ、家では無口でずっと黙っている印象でした。休みの日も本を読んでいることが多くて、基本的にはインドアだったと思います。

 これもあとから聞いた話ですが、外面がよく、飲み屋に行くと奢ってしまう癖があったらしいのです。推測に過ぎませんが、家庭に癒やしを求められなかった人だから、外で発散していたのかもしれません」

◆「借金1000万円」を抱えて姿を消した父のその後は…

 総額1000万円にものぼる借金を抱え、その使途も不明なまま、鈴木氏の父親は忽然と姿を消した。伝聞では勤めていた企業は退社したとのことだったが、その後の行方は杳として知れなかった。

 そんな父親に対して、鈴木氏は何を思うのか、

「父親は3年くらい前に死んだらしく、役所から連絡が来ました。20年近く、連絡も取らず、会わずに最後はその通知だけでした。改めて親子って何なんだろうと思ってしまいます。

 私には、自分をなかなか他人にさらけ出せずに壁を作りたがるところがあります。もしそれが父親譲りだとしたら、借金の理由も想像がつきます。きっとくだらないことに使ったのが最初で、それを誰にも相談できないまま雪だるま式に増えて、徐々に自暴自棄になったのかなと。そうだったとして、私たち家族が被ったものを全部許せるわけではないのですが、かといって恨むこともしていません」

◆まったく家庭を持ちたいと思えない

 40歳を手前にした鈴木氏の人生のうち、父親と過ごした時間は半分にも満たない。だが氏の人生観を形成するうえで父親は大きく濃い影を落とした。

「現在は収入も安定しているし、家族を持っている同年代も多いのですが、まったく家庭を持ちたいと思えないんです。自分が父親になる絵が浮かばず、過去にも交際相手から結婚を迫られて拒否してしまった経験もありましたね。

 それから、電子マネーなどのように貨幣の形をなさずにデジタルのやり取りで残高が増減するものを扱うのに抵抗が……。容易に手を出して、破産するんじゃないかと不安になるんです。Amazonや楽天も代引きにしていますし、Suicaも持っていません。不便ですが、そういう生き方をしています」

◆今だったら普通に話せるような気も…

 亡き父の余波に煽られながらよろめく自分の人生について、鈴木氏はこんな感想を漏らした。

「何でもかんでも父親のせいにするつもりはありません。私は大学3年生のころに心理的に負担を感じて中退し、そのあと働きました。このように、仮に父親の一件がなくても、自分は生きるのが上手じゃないんだなと思う場面はたくさん浮かびます。

 おかしな話ですが、妙な親近感を父親に覚えてしまうんです。何のためにした借金で、それで家族も何も繋がりを絶って、本当はどうしたかったのか、何もわからない。けれども、全部から逃げたくなったり、何もかもどうでもよくなる気持ちは、わかるような気もするんです。

 今だったら普通に話せるような気もするんですけどね。まずは『下手こいたな、あんた』って言ってやりたいですね」

 愛憎は片方だけで膨張せず、表裏で育つ。自らの欠陥と、かつて家族に惨状をもらたした憎き父親に欠損していたものの形が符合するとき、たとえまやかしだとしても、父親の残像が愛しく思えるのかもしれない。

<取材・文/黒島暁生>



【黒島暁生】

ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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