借金4億円を背負った元プロレスラー・田上明のその後「ゼロになってホッとした部分もある」

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AIざっくり要約

  • プロレスラーの田上明はノアの社長を務め負債4億円を抱え破産。
  • その後ヤマト運輸のバイトをしながら破産処理を進め個人資産を処分し無一文となる。
  • 現在は妻の経営するステーキ居酒屋で孫と過ごし日常を送っている。

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借金4億円を背負った元プロレスラー・田上明のその後「ゼロになってホッとした部分もある」

田上 明

◆ノアの社長は“貧乏くじ”みたいなもの
 元プロレスラーの田上明が、自己破産からの復活劇を振り返る。26歳のときに角界から全日本プロレス入りした田上は、三沢光晴、川田利明、小橋建太とともに“四天王”として肉体の極限に挑むシビアなファイトを展開。「ダイナミックT」と称され、ファンからの絶大な支持を集めてきた。しかし2009年6月に団体社長の三沢が試合中のアクシデントにより逝去すると、彼の人生も大きく転回する。翌7月にプロレスリング・ノア(以下、ノア)の2代目代表取締役社長に就任することとなったのだ。

「細かいところは、俺自身もわかっていないところはあるんだけどさ。たぶんみんなで相談して決めたんじゃないの? まぁでも一番はアレだよね。大株主である三沢の奥さんから『やってほしい』と電話がかかってきたんだよ。同時に、若い連中からも『ぜひお願いします!』って感じで頼まれちゃった。俺の前は、小橋(建太)にも断られたという話だったしさ。それから三沢の右腕だったフロント・仲田(龍)に押し切られた部分もあった。いずれにせよ、もう引き受けざるをえないような空気だったのは確かだよ。

 はっきり言って、貧乏くじみたいなものだよね。すでにノアの経営状態がよくなかったのは、どう見ても明らかだったからさ。でも誰かがやらないと、若い奴らが路頭に迷うことになるわけじゃない。一応、嫁にも相談したら『好きなことをやれば?』ということになった。でも、そこからは本当に苦しいだけの7年間だったよ」

◆泣きっ面に蜂だった地上波打ち切り

 団体にも調子のいい時期はあった。00年、ジャイアント馬場の未亡人・元子氏に反旗を翻すかたちで独立したノアは、業界に新風を巻き起こすことに成功。K-1やPRIDEなどの格闘技人気に押され迷走を繰り返す新日本プロレスを尻目に、04年・05年には東京ドーム大会を大盛況で終わらせた。

「ただ、選手離脱が相次いだんだよね。小橋の病気(腎臓癌)と引退、KENTAのWWE移籍、秋山(準)たち一派の退団、それから三沢の事故死……。でも、それ以上に厳しかったのは日本テレビの放送打ち切りだった。一応、CSでの放送は続いたんだけど焼け石に水。地上波の放送権料が団体経営の生命線だったわけだから」

 このほか、反社会勢力との団体幹部や一部レスラーの深い関りが雑誌で報道されたこともあった。田上自身は「それほど大きな影響はなかったんじゃないかな」と呑気に述懐するが、決してそんなことはあるまい。ノアの社会的信用が失墜したことは火を見るよりも明らかだった。

◆まともに眠れない日が続いていた

「実際に蓋を開けてみたらビックリということが多かったんだよ。たとえば経理部門の杜撰さ。切符(チケット)を持っていくけど、お金を入れないなんていうことは日常茶飯事なわけ。30万円分の切符を持っていきながら、10万円しか入れないとかね。帳面にはついているから横領にはならないのかもしれないけど、どんぶり勘定なんていうレベルじゃなかったよ。そもそも経理のトップから率先してポッポに入れているわけだから。『こんなの三沢が本当に許していたのか?』って呆れて聞いても、『特に問題にはならなかったです』って平然と答える始末でね」

 社長として田上が取り組んだのは、「ちゃんとした会社にする」という極めて当たり前のことだった。選手の給料体系も、試合ごとのギャラ制度から月給制に変えたという。一方で大会スケジュールなど、現場に関することはすべてフロントの仲田に一任していた。経営に汲々とする田上としては、リング上のことなど構っていられないというのが本音だった。

「結局、(自身が社長を辞めた)16年の時点で団体の負債は4億円にも膨れ上がっていたんだよね。三沢時代から引き継いだのが約2億円。俺が社長になってからの分が2億円くらいかな。これ以上続けたところで、負債が増えることはあっても減ることはないわけでさ。もう選手に給料を払うのも大変だったし、限界を迎えていたよ。そんなとき、『こういう話があるんですけど……』と身売りの話が届いたわけ。正直、ホッとしたね。社長になってからというもの、まともに眠れない日が続いていたから」

◆借金4億円を1人で背負うことに

 16年11月1日、株式会社プロレスリング・ノアは株式会社ピーアールエヌに商号変更。同時にノアの実質的な運営・興行・関連事業はIT企業・エストビーに譲渡された(翌週、ノア・グローバルエンターテインメントに社名変更)。17年2月にはピーアールエヌの破産が正式に成立し、三沢の作った団体は事実上の終焉を迎えることになる。この一連の動きの中で田上はピーアールエヌの社長として、ノアの負債4億円を1人で背負い、破産準備を進めるとともに、新会社であるノア・グローバルエンタテインメントの相談役に就任する。

「身売りした相手も別にそんなに大きい会社じゃないし、負債の面倒なんで見てくれるわけないよ。それでも再スタートするなら借金はゼロにするほうがいいだろうってことで、そういうかたちにしたわけ。とはいうものの、聞いていた話と違うこともあったけどね。『田上さんにも、お金はこれくらいは出します』なんて具体的な金額も提示されていたけど、結局、それだって3回しか払われなかった。本当に口約束だけ。月末になるとお金がなくなるから電話するんだけど、何回かけても出なかったりしてさ。内田(雅之=ノア・グローバルエンタテインメント会長)というのは初めからそんな感じの男だったよ」

◆ヤマト運輸で仕分けのバイト

 自己破産──。ノアの借金・4億円を1人で背負うことになった田上にとって、残された選択肢はひとつだけだった。車や自宅などの個人資産はすべて売却。無一文の身となった“田上火山”は鎮火を余儀なくされた。ノアの経営危機が長く続く中、丸藤正道や杉浦貴も取締役を辞任し、田上が唯一の経営陣となっていたのだ。

「仕方ないから、ヤマト運輸で仕分けのバイトもしたよ。そのへんのことは最近出した自伝の中でも触れているけどね。今さら別の業種で正社員になるなんて無理じゃない。宅急便の仕分けも夜中の時間帯だと、結構いい額になるんだ。時給いくらだったっけな? もらった分は全部そのまま嫁に渡していたから、細かい額は忘れちゃったな。でも、作業現場でプロレスが好きな人から『あっ、田上だ!』とか気づかれることもあった。その人は今もうちの店に遊びに来てくれるんだ。ありがたい話だよ」

◆地に足のついた日常を粛々と

 現在、田上は妻の経営する『ステーキ居酒屋チャンプ』(茨城県つくば市)を拠点に生活を再構築している。田上本人を含めて、往年の名レスラーの写真がズラリと並べられた店内の様子はプロレスファンだったら垂涎ものだろう。実際、地方や海外からはるばる訪問するマニアも後を絶たないという。プロレス時代はタニマチに囲まれて贅沢な生活を謳歌していた時期もあるそうだが、今は地に足のついた日常を粛々と送っているようだ。

「もう62歳で、身体もボロボロだしね。浅子(覚)がこの店に遊びに来たとき、酔っぱらって俺の背中の上に倒れたんだよ。それで圧迫骨折。今、あいつは整骨院をやっているんだけど、身体を治す職業なのに逆に痛めつけてどうするんだって話でさ(苦笑)。もちろんプロレス時代の激しい試合が後遺症みたいに残っている部分もあると思う。それから5年前には胃がんもやった。結局、胃は全摘出したよ。今は孫の成長を見守ることが唯一の楽しみかな。まぁ地味に暮らしていますよ」

 現役時代からプロレスラーらしいギラついた上昇志向とは無縁だった田上だが、紆余曲折を経た現在は、実年齢以上に枯れているようにも見える。だが持ち前のぼやき節を炸裂させながらも飄々と危機を乗り越えていく生き様は、四天王ファイターとしてのタフネスぶりを連想させるに十分だ。

たうえ・あきら◎1961年、埼玉県秩父市生まれ。身長192cm、体重120kg(選手時代)。高校時代から相撲に打ち込み、押尾川部屋所属の力士となる。四股名は玉麒麟安正。最高位は西十両6枚目。87年にプロレス界入りを果たすと、恵まれた肉体と突貫ファイトを武器に全日本プロレスのスター選手に。00年には多くの仲間とともにプロレスリング・ノアに移籍。09年に三沢光晴が急逝してからは、同団体の社長を務めた。10月には初の自伝『飄々と堂々と 田上明自伝』(竹書房)を上梓した。

<取材・文/小野田 衛 撮影/丸山剛史>



【小野田 衛】

出版社勤務を経て、フリーのライター/編集者に。エンタメ誌、週刊誌、女性誌、各種Web媒体などで執筆をおこなう。芸能を中心に、貧困や社会問題などの取材も得意としている。著書に『韓流エンタメ日本侵攻戦略』(扶桑社新書)、『アイドルに捧げた青春 アップアップガールズ(仮)の真実』(竹書房)。

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