あの「離島の名将」が縁もゆかりもない大分で誓う、甲子園への再挑戦

 八重山商工の監督として2006年に離島勢として初の自力甲子園出場を果たした伊志嶺吉盛氏が、2016年夏の沖縄大会を最後に、ユニフォームを脱いだ。その後は、かつて自らが創設した八重山ポニーズで中学生を指導していたが、勇退から半年も経たぬ間に再び高校球界へと帰ってきた。

 伊志嶺氏が選んだ新天地は、石垣島でも沖縄本島でもなく、自身曰く「縁もゆかりもなかった」という大分県佐伯市にある日本文理大付属高校だった。

 日本文理大付は、2003年に九州勢として初めて大学選手権優勝を果たした日本文理大の付属高校で、2008年春に日高亮(ヤクルト)を擁して県大会優勝。2011年夏には準優勝で甲子園まであと一歩と迫ったが、いまだ甲子園出場経験はない。

 石垣島以外で指導経験のない伊志嶺監督は、「大分県の高校野球はもちろん、日本文理大付に対する予備知識もなかった」と豪快に笑うが、63歳での再挑戦の場としては少々ハードルが高すぎでは......と思えてしまう。なぜ離島の名将は大分へと来たのか。日本文理大付での初指導となった12月7日、新監督を訪ねた。

 伊志嶺監督は、1978年に八重山商工の監督に就任。83年に一度は現場を離れるも、2003年に石垣市の派遣事業として同校の監督に復帰すると、2006年の春夏甲子園出場をはじめ、4度の九州大会出場で優勝1回、準優勝1回と八重山商工を強豪へと導いた。さらに、祐太・翔太の大嶺兄弟(ロッテ)をプロの世界へと送り出している。

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