謹慎処分で変わった指導法。履正社と岡田監督「激動の30年史」

■履正社・岡田龍生物語(後編)

 1987年の春に岡田龍生が履正社高校野球部の監督になったとき、部員は元陸上部、元卓球部、元体操部の3人を含めた11人だった。専用グラウンドはまだなく(2003年に完成)、練習は放課後の校庭でラグビー部、サッカー部、そして当時あった軟式野球部らと共用で行なっていた。フリーバッティングはほかのクラブが終わった18時半頃から行ない、ほかの時間は空きスペースでキャッチボール、内野ノック、バント練習を徹底した。

 就任2年目からスポーツ推薦で部員を募集できるようになったが、知名度も実績もない履正社に行きたいという生徒は皆無。近隣の中学校やクラブチームを回り、受験してくれるよう関係者を訪ねても対応は素っ気ない。

 それでも何度も顔を出しているうちに岡田の情熱に理解を示す者が出始め、一定レベルの選手が集まるようになった。すると89年秋の大阪大会で、宮田正直(元ダイエー)や中村豊(元阪神など)をはじめ、のちにプロへ進む選手が多数在籍する優勝候補の上宮に勝利。「履正社」の名前が近畿圏内に広まった。

 さらに翌年夏も大阪大会でベスト8入りし注目を集めると、97年夏、ついに大阪を制し甲子園初出場を決めた。体重が60キロにも満たない華奢なエースがひとりで投げ抜き、攻撃の武器はバント。まるで公立校のような戦いぶりでの初制覇は、岡田が東洋大姫路時代に学んだ「徹底することの強さ」を示すものだった。

「飛び抜けた選手はいないし、施設も充実していない。それに学校のバックアップも今ほどではない。それでも大阪で、10年で甲子園に行けた。この経験は僕自身の強みと思っていますし、そのスタートがあるから『何があっても怖くない』という気持ちは常にあります」

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