エース引き抜き、徹夜で連投…。 土橋正幸が語っていた昭和のプロ野球

おまえのほしいだけもらってやるよ』って言われて、それでやっと契約したんですよ」
 巨人に引き抜かれそうな東映のエースを、新監督が手放すわけにはいかない。そこで自ら引き留める策を講じ、残留させた──。当時の大エースの存在を実感できる顛末。1人の特別な投手を中心にチームが回り、成り立っていたことが、これほどよくわかるエピソードはないのではないか。
「それもフィクションみたいでしょ? で、また東映で頑張ろうと思ってね、それで30勝したんですよ。30勝しても最後の最後で負けて優勝はできなかったけど、翌年は勝ちましたからね」
 水原監督のもと、投打とも戦力が充実した東映は62年、尾崎行雄を筆頭とする新人補強が功を奏し、独走で球団初の優勝を果たす。20勝の尾崎が勝ち頭で土橋さんは17勝だったが、投球回数は272イニングでチーム断トツ。4勝2敗1分で阪神を倒した日本シリーズでは、実に6試合に登板して2勝。捕手の種茂雅之(たねも まさゆき)とともにMVPに選ばれている。
「水原は血も涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないと優勝できないね。わたしは結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」
 あくまで「水原」と呼ぶところに、名将と大エースとのヒリヒリした関係性が浮かび上がる。が、土橋さんがエースになった要因、”江戸っ子投法”のことをまだ聞けていない。

関連記事(外部サイト)