20勝して一人前。権藤博が輝きを放った「ピッチャーが天下の時代」

20勝して一人前。権藤博が輝きを放った「ピッチャーが天下の時代」

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第2回 権藤博・前編
 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていた。
 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。今回はドラゴンズ入団直後、いきなり人間離れした数字を残した権藤博さんの言葉を語り継ぎたい。

1961年10月7日、シーズン34勝目を挙げた権藤博を濃人渉監督が出迎える 写真=共同通信


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 権藤博さんはかつて、一瞬の輝きを放ったスーパーエースだった。1961年に中日に入団すると1年目にいきなり35勝、翌年も30勝と、とてつもない数字を残し、2年連続最多勝を達成する。
 が、この2年間で登板数が130試合にも上った影響で肩を痛め、以降は成績が急下降。野手転向の時期も含め、実働8年で現役を引退している。その後は中日、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)、横浜(現・DeNA)でコーチを歴任。98年には横浜の監督としてチームを日本一に導いた。
 僕は、かねてから、「なぜ、ルーキーにしてそこまで投げなければならなかったのか」「なぜ、数字を見るだけで頭がクラクラするほどに勝てたのか」、直に聞いてみたかった。

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