20勝して一人前。権藤博が輝きを放った「ピッチャーが天下の時代」


「今から考えたら、自分でない自分がやったぐらい、すごい記録だと思います。長年、野球に携わってきて、ピッチングコーチも長いことやって、監督もやって、本当に自分でないような自分を経験できた。だから、実は権藤っていうのは2人いて、1人は投げた権藤と、もう1人は肩を痛めてすごい苦しんで、そこからコーチやって、監督までやれたっていう、2人の権藤がいる、みたいな」
 活躍したのがルーキーイヤーからの2年間のみで、翌年以降は10勝、6勝となると、そういう感覚になるものなのか。まして1年目の権藤さんは勝利、登板、投球回、奪三振、防御率、完投、先発、どれもリーグ1位の成績で当然のように新人王、沢村賞も獲得している。その背景には当時の中日監督、濃人渉(のうにん わたる)とのノンプロ時代からの関係性があったという。
「濃人さんは田舎町の炭坑の、日鉄二瀬(にってつふたせ)というプロの予備軍みたいな強いチームの監督でね。いつも、にや〜っとしてて、すごい不気味な方でした。こっちは弱いチームでしたけど、二瀬と試合をやって、僕が投げる限りスコアはゼロ、ゼロが並んでいく。で、いつかはこっちが負けるんだけど、自分自身は力はつけていたんです。
 その後、濃人さんは中日の二軍監督になられて、僕が入ると同時に一軍の監督になった。二瀬のときから僕に対する期待と評価、両方してたんじゃないかと思いますが、キャンプのときは監督と話すことはなんにもなかったです」
 淡々とした受け答えが続く。

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