20勝して一人前。権藤博が輝きを放った「ピッチャーが天下の時代」

資料には〈濃人監督は優勝のチャンスをものにするためには、この一人の新人と心中するしかない、と覚悟を決めた〉とあったが、権藤さん自身は監督をどう見ていたのか。
「まあ、厳しい人でした。当時、戦前から野球をやって、戦後に監督まで上りつめた人っていうのは、みんな戦争を体験してるわけです。仲間が戦地に行くとか、濃人さん本人も戦争に行ったと思うんだけど、戦時中には、いつ命をなくすかわからない、という気持ちがあったわけですよ。だから、頭の片隅にね、『なぁに、命まで取られやせん』っていうのがある。『肩が痛いぃ? ヒジが痛いぃ? そんなもんはたるんどる』っていうのがあるわけですよ」
 では、かなり早い段階から、登板数が増えそうな気配があったのだろうか。
「5月頃までは中4日ぐらいのローテーションで回ってたんです。それがある試合で完封した翌日、同点で次の回から出て行って、結局、1点取られて負けるんだけど、そのとき、監督の部屋に呼ばれて。おっ、怒られるかな、と思ったら、『稲尾でも、杉浦でも、完投した翌日に投げるんだから、これからも覚悟しとけ!』って言われて。そっからですよ、始まったのは、連投。権藤、権藤、雨、権藤は」
 まさか、ご自身の口から出ると思わなかったので、僕は思わず笑ってしまった。[権藤、権藤、雨、権藤]、その後に[雨、雨、権藤、雨、権藤]と韻を踏んで続く言葉。

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