明治維新で「大久保利通を最も困らせた」意外な藩

明治維新で「大久保利通を最も困らせた」意外な藩

大久保利通の出身である薩摩藩の居城だった鹿児島(鶴丸)城の御楼門(写真:kazukiatuko/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通は、どんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第29回は、「版籍奉還」と「廃藩置県」をめぐる大久保の苦悩に迫ります。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

<第28回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。

ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。

1 2 3 次へ

関連記事(外部サイト)