一斉指導型でもエリート教育でもない、求められる学びの「個別化」「協同化」の融合とは

一斉指導型でもエリート教育でもない、求められる学びの「個別化」「協同化」の融合とは

『公教育をイチから考えよう』(リヒテルズ直子,苫野一徳 著、日本評論社)

――この連載の前回にインタビューした著者の方のお話の中で、「勝ち負けを競うこれまでのディベートではなく、お互いの考えを言い合うことで誰も思いつかなかった答えを構築していくコミュニケーションへ」というお話がありました。本書の中でも、苫野さんが似たお話をされていて、印象的でした。

苫野:ディベートは相手を言い負かすことが目的になりがちです。新刊の『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)でも詳しく触れていますが、帰謬(きびゅう)法という技を使えばディベートで決して負けません。でもこれは、相手を否定することにかけてはうまいけど、建設的な話には決してならない悲しい技なのです。ディベートをすると、どうしてもこの帰謬法を使ってしまう。批判のための批判をするディベート、教育現場でこれを行うのはもういい加減やめた方がいいと思います。私は、否定派も肯定派も納得できる第3の答えを探っていくことが目的の「共通了解志向型ディベート」を提唱しています。

――このディベートに関する話にも通じるのですが、教育に関する議論の閉そく感の一つの理由は、「どちらが正しいか」という前提があることではないかと感じます。

苫野:私が「問い方のマジック」と呼んでいるものですね。「こっちが正しいか、あっちが正しいか?」と問われると、人は思わず、「どちらかが正しいんじゃないか」と思ってしまう傾向があるのです。でも本来考えるべきは、「あっちもこっちも納得できる、もっと力強い第3のアイデアは何か?」ということのはずです。

 もう一つ、教育はみんなが受けてきているので、「一般化のワナ」にはまりやすいという問題があります。自分一人の経験を、まるで誰にも当てはまることのように過度に一般化してしまうワナですね。

続きは WEDGE Infinity で

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