アルゼンチンサッカーは憎悪の祭典だった

アルゼンチンサッカーは憎悪の祭典だった

ブエノスアイレス(iStock)

 南米には3つの嘘がある。「一杯だけ、一杯だけだから」「金かしてくれよ。明日返すから」。そして「アルゼンチン経済」。

 マウリシオ・マクリ アルゼンチン大統領が5月18日〜20日にかけて来日した。目的は貿易・投資の促進だ。アルゼンチンはリチウムなどの資源もあり、農業も盛んで、教養のある人間も多く、白人系の国で民族紛争もない。第二次世界大戦後は「アルゼンチン人ほどの金持ち」と言われ、日本に食糧援助さえしてくれた。

 けれども、貿易保険適用国になったとはいえ、新規の投資には、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要となろう。アルゼンチンはデフォルトの回数ではベネズエラと争い、政治経済は一時安定してもすぐに溶解してしまう。なぜだろうか? サッカー、焼肉、タンゴ(芸術)からその謎に迫る。

■マラドーナとメノティとの出会い

 マラドーナが世界にデビューしたのは日本で開かれたワールドユース(1979年)だった。最近韓国で開催されたU-20W杯の前身である。筆者はスペインチームの通訳として、高輪にあるホテルに参加各国チームの若者とともに留まっていた。

 食事は、各国の選手たちが大広間で呉越同舟だった。アルゼンチン訛りのチェを連発する甲高い声が響くと、夕食会場は静まり返り、俄かに空気が緊張した。各国選手と監督の視線の先には、セサル・メノッティの哲学者のような厳格な顔があった。その後ろには、マラドーナ! すでにサッカー界にたぐい稀な才能が流布されていた若者と、前年のワールドカップの優勝監督に対する畏敬の念、そして彼らが敵になるかもしれない恐怖が一瞬空気を凍てつかせたのである。

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