令和とインパール作戦と石田三成

令和とインパール作戦と石田三成

(isaxar/gettyimages)

「そんな昔の話でもないんだ」

 改元が行われて令和となる数日前、我が家人は新聞を読みながらこう呟いた。元号を君主(日本では天皇)の在位中には変更しない一世一元の制が日本で始まったのは明治時代からだったということを知っての反応だ。私にとっては既知のことのため、何を今更ながらと思ってしまったものの、令和を含めてこれまでに元号は248あるが、一世一元となったのは明治から令和までのわすが5つなのだ(令和だって今後どうなるかわからない)。

 信じられてきている伝統は実はそう古くない昔に人為的に作られたものであり、歴史のイメージを様々に問い直す必要があると感じた。そんな家人の平成末の呟きだった。

 日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

 こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

 石田三成は永禄三年(1560)に近江(現在の滋賀県)に生まれ、豊臣秀吉にその才能を見出されたことで知られる武将だ。慶長五年(1600)に起きた天下分け目の関ヶ原の戦いでは、西軍の中心人物として、三成の所領の十倍以上を治める大大名、徳川家康に勝負を挑み、敗れて処刑されたことは有名だ。

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