明治期にあった日本の雲南ブームとは

明治期にあった日本の雲南ブームとは

ラオカイ付近にあるSAPA村。現在では観光地となり、少数民族の衣装が土産物として売られている(phanthit/gettyimages)

青森県七戸に生まれた米内山庸夫(明治21=1888年〜昭和44=1969年)は、辛亥革命勃発(1911年)の1年前に当たる「明治四十三年七月、上海より行を起こし、香港、海防を経て雲南に入り、さらに北して四川に出で、それより揚子江を下つて、十一月に上海に帰つた。その間、海防から雲南省城の昆明までは?越鉄道に依り、昆明から四川省城の成都までは自ら歩い」た。若干22歳。上海の東亜同文書院卒業前後だったと思われる。 

 米内山はラオカイでフランス領を離れ、河口で清国に足を踏み入れた。彼が利用した路線は「(フランスが)支那から雲南線敷設の権利を得て、(べトナム北部領内の)東京線を雲南省城まで延長することを計画し、一千九百一年、?越鉄道会社を組織して雲南鉄道を敷設せしめ」たもの。米内山が旅したのは竣工から10年ほど後のことだ。

 19世紀も終わりに近づく頃、清国攻略ルートとして雲南省に着目したイギリスは英領ビルマを拠点に西から、フランスは仏領ベトナムを足場に東から動き出す。?越鉄道雲南線でフランスが先んじ、対するイギリスは遂に鉄道での昆明入りを果たせなかった。

 この路線は「海拔二百九十五呎の河口から、雲南まで四百六十五粁の間に、海拔六千四百呎に上るといふ山また山を溪谷を沿ふて登つて行く極めて難工事であつた。この鉄道は狭軌で、その枕木及び電柱等はすべて鉄材を用ひてゐる。

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