明治人の旅から「武漢」の歴史をたどる

明治人の旅から「武漢」の歴史をたどる

武漢市のダウンタウン(liu rui/gettyimages)

前田利定は明治45(1912)年5月末に神戸を発ち、上海、蘇州、南京、漢口、北京、天津、営口、大連、旅順、長春、ハルピン、奉天を回る。前後40日ほど。中華民国建国直後の混乱期の旅であった。

 1912年の元旦、革命派の領袖である孫文を臨時大総統とするアジア初の立憲共和政体の中華民国が発足する。革命派が掲げた「駆除韃?、恢復中華(異民族を追い払い、中華を取り戻せ)」が実現した瞬間だった。前年の1911年10月10日に勃発した武装蜂起を起点とした辛亥革命によって、異民族である満州族が17世紀半ばに“神聖なる中華の地”に樹立した清朝は崩壊したのである。

 3月には孫文に代わって袁世凱が第2代臨時大総統に就任した。だが袁世凱を頂点とする保守派と孫文を戴く革命派による政権をめぐって激化する確執、革命派内での政治路線を巡る暗闘、さらに各地に割拠する軍閥の利害対立、これに中国利権に群がる列強間の策動と対立が加わり、中華民国の前途には暗雲が重く垂れ込めていた。

 現地を歩いた前田が最初に気づかされたのは、中国における列強間の利権争いに困惑する日本の姿である。

 先ずは上海でのことだ。

 たしかに通商の上で「我国は第二位の優位を占むるとは云へ英国に比すれば其差」は歴然としている。とは言え、1840年のアヘン戦争を機に上海に「数十年來蟠踞」しているイギリスに対し、日本が「中清殊に長江方面に注目着手」したのは最近であることを考えれば、「目覚ましき発展をなした」と認めるべきでもあろう。

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