「オリンピックのサル」という汚名が猿渡武嗣さんの死期を早めた【東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン】

「オリンピックのサル」という汚名が猿渡武嗣さんの死期を早めた【東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン】

猿渡は1965(昭和40)年から日本選手権5連覇、71年からは小山隆治(央)が6連覇を達成(C)共同通信社

【東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン】

 猿渡武嗣さん=1964年東京五輪・1968年メキシコ五輪・陸上3000メートル障害(下)

 ◇  ◇  ◇

 敗戦後の日本経済を率いてきた2大製鉄会社の八幡製鉄と富士製鉄。ライバルでありながら、さらなる経済成長を期して合併を発表(新日本製鉄発足は1970年3月)したのは、メキシコオリンピックが開催された68年の4月だった。

 オリンピックのサル――。

■八幡製鉄と富士製鉄

 80年、新日鉄東京本社から旧富士製鉄系の新日鉄室蘭に赴任した猿渡武嗣は、決して愛称ではなく、明らかに動物のモンキーにたとえられて揶揄された。陸上競技部を擁する旧八幡製鉄系の新日鉄八幡に在籍し、東京とメキシコ大会に出場したオリンピアンだったからだ。

 ちなみに猿渡が現役選手時代に在籍した新日鉄八幡には、陸上と水泳の競技部があり、いずれも日本を代表する実業団チーム。東京オリンピックには実に10人が出場していた。陸上マラソンの君原健二(8位、メキシコ銀メダル)、水泳の田中聡子(100メートル背泳ぎ4位)が代表的な選手である。対して新日鉄室蘭にはオリンピアンはいなかった。

 ともあれ、猿渡はオリンピアンとして自負を抱き、意地を張った。“オリンピックのサル”の汚名を払拭するため、残業もいとわず深夜まで働いた。積極的に得意先の接待にも出向いた。上司や部下に対し、言葉よりも態度で示したのだ。

 引退後の東京本社勤務時代から健康管理にとマラソンやジョギングを毎日欠かさなかったが、多忙のためいつしかやめてしまった……。

■詳細なメモを妻に

 新日鉄室蘭に厚生課長の役職で赴任して3年目、82年7月20日。4日間の東京出張に出発する日の朝だ。妻の比都美に普段とは違う態度を見せた。いつもなら宿泊先や誰に会うかなど教えないばかりか、連絡もせずに会社からそのまま出張に出向く。後で妻に電話で伝えるのが当たり前だった。

 ところが、その日はなぜか違った。宿泊するホテル名と電話番号、誰に会うかなどを詳細にメモして妻に手渡し、妻が運転する愛車で室蘭駅に向かったのだ。

 そして、その日の午後に東京本社に着いた猿渡は、夜の会議に出席。前号で述べたように会議後は、久しぶりに会う同僚と好きなマージャンを楽しみ、ホテルにチェックインしたのは翌21日の明け方。人知れず息絶えた猿渡は、その昼すぎにホテル従業員に発見されたのだった。正直、夫の死を知らされたとき、妻はテレビのドッキリカメラのいたずらだと思ったという。

 猿渡武嗣は39歳で泉下の人となった。死因は心不全だが、その死を早めたのは、汚名返上のために無理を重ねたからに違いない。

▽さるわたり・たけつぐ 1942年福岡県生まれ。65年に中央大学から八幡製鉄(新日本製鉄、現日本製鉄)に入社。アジア大会で2度優勝した中距離陸上界の第一人者。64年東京、68年メキシコ五輪陸上3000メートル障害代表。

(岡邦行/ルポライター)

関連記事(外部サイト)