奥川・佐々木はどうなる? 超高校級投手のプロ入り後の明暗

奥川・佐々木はどうなる? 超高校級投手のプロ入り後の明暗

プロでの活躍が楽しみ

 今年のドラフトの目玉として注目を浴びる星稜・奥川恭伸投手と大船渡・佐々木朗希投手。こうした高校野球でのライバル関係は、「田中将大と斎藤佑樹」のようにその後プロでも続き、大きく明暗を分かつこともある。1964年夏の準優勝投手・池永正明(下関商)とセンバツ優勝投手・尾崎将司(徳島海南)は翌年、西鉄に揃って入団した。当時は鉄腕・稲尾和久を擁する全盛期だった。

「池永は1年目から20勝を挙げて新人王、1967年には23勝14敗で最多勝に輝いた。その活躍を見た尾崎が“あんな凄い奴がいたら俺は成功できない”とゴルフに転身した。しかし尾崎がプロテストに合格した1970年に、池永は『黒い霧事件(※)』でプロ野球界を去ることになってしまいました」(ベテラン記者)

【※/1969年に発覚した一連の八百長事件。池永をはじめ多数の永久追放者を出した。池永はその後、球界への復権を希望し、2005年に永久追放処分が解除された】

 1965年秋の初ドラフトでは、巨人が堀内恒夫(甲府商)、近鉄が鈴木啓示(育英)を獲得した。

「堀内は1年生の夏に甲子園でリリーフ登板するも、3年時は県予選決勝で敗退。鈴木も3年のセンバツで初戦敗退し、夏は出場できなかった。両者とも甲子園より、プロに入って輝いた。堀内は1年目に16勝2敗で新人王、最優秀防御率、沢村賞を獲得。鈴木も5年連続で20勝をマークするなどセ・パを代表するエースになった」(元デイリースポーツ編集局長・平井隆司氏)

 大きく明暗が分かれたのが、1974年夏の優勝投手・土屋正勝(銚子商)と、同大会の準決勝で敗退した定岡正二(鹿児島実業)だ。

 土屋は前年の夏の甲子園で2年生エースとして江川卓(作新学院)と対戦、延長12回を投げ勝ったこともあって最注目投手だったが、中日入団後は11年間でわずか8勝。一方、巨人入りした定岡は江川、西本聖と並ぶ3本柱として活躍した。

「土屋は“江川に勝った男”として名が知れわたり、2年秋から3年夏にかけて全国から招待試合の申し込みが殺到。投げすぎで入団前から肘や肩はボロボロになっていたようだ」(ベテラン記者)

◆荒木大輔の抽選を外した巨人は斎藤雅樹を獲得

 1981年の注目株は、同じ愛知県のライバル、槙原寛己(大府)と工藤公康(愛工大名電)だった。2人は愛知県代表の座を奪い合い、春は槙原の大府、夏は工藤の名電に軍配が上がった。

 工藤は夏の初戦でノーヒットノーランを達成するも、準決勝で報徳に敗れた。槙原はセンバツで金村明義擁する報徳学園を下した。

 槙原は地元の中日か、ファンだった巨人以外なら社会人に行くと宣言。工藤は社会人の熊谷組に内定しており、指名が見送られると思われていた。

「ドラフト会議当日、巨人が槙原を単独1位指名すると会場がどっと沸きましたが、それ以上にどよめいたのが、西武が工藤を6位指名した時でした。監督から管理部長としてフロント入りした根本陸夫さんの“根本マジック”が炸裂し、“球界の寝業師”と呼ばれる所以となった」(同前)

 

 翌1982年の夏は、5季連続で甲子園出場を果たした“大ちゃん”こと荒木大輔(早実)が甲子園のアイドルとして注目を集めた。

 その荒木を“やまびこ打線”の池田が準々決勝で下し、深紅の優勝旗を持ち帰る。池田のエースだった畠山準を南海が単独指名。荒木は巨人との競合の末、ヤクルトが引き当てた。

「畠山は投手として4年間で6勝し、外野手に転向。荒木もプロ10年で39勝49敗2セーブに終わりました。

 荒木の抽選を外した巨人がハズレ1位で指名したのが、甲子園出場経験のない斎藤雅樹(市立川口)だった。それが巨人のエースとして通算180勝をあげたのですから、運命はわからない」(前出・平井氏)

撮影/藤岡雅樹

※週刊ポスト2019年9月13日号

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