350勝の米田哲也氏、「金田さんの400勝を抜けると思ってた」

350勝の米田哲也氏、「金田さんの400勝を抜けると思ってた」

350勝投手が今だからこそ語ることとは

 驚異的なスタミナから「ガソリンタンク」の異名をとり、金田正一氏の400勝に次ぐ歴代2位の350勝をあげた米田哲也氏(81)。金田氏が亡くなった今だからこそ話せる大記録への思いを語った。

 * * *
 カネさんの生前は口が裂けても言えなかったけど、400勝を抜けると思ったことは何度もあります。

 そもそも、僕がプロでやれるかもと思ったのは、高校時代に地元・鳥取の米子で阪神−国鉄戦を初めて観戦した時だった。阪神の渡辺省三さんはコントロールはいいけど球が遅いし、カネさんは球は速いけどコントロールが悪かった。正直、これなら僕でもいけると思ったからね。

 後で聞いた話だけど、僕が300勝を超えても2桁勝利をあげていた頃から、カネさんも“ヨネは400勝を抜きそうか”と阪急の関係者に探りを入れたり、“ワシを抜くのはヨネしかいない”と気にかけてくれていたそうです。

 ただ、330勝を超えた1975年シーズンから、阪急での登板機会が減った。そこで、志願してシーズン中に阪神へトレードで出してもらいました。なぜ阪神かと言うと、39歳まで現役を続けて320勝をあげた小山正明さんが投手コーチだったから。小山さんはベテランの扱いをよく知っている人だった。トレード後は2か月で8勝して、防御率2.53と打たれなかった。小山さんの下ならまだまだやれると思いました。

 ところが、移籍1年目のオフに小山さんが辞めてしまった。後任の皆川睦夫コーチは、小山さんと違って十分な登板間隔を空けてくれませんでした。それでも阪神2年目で10勝をあげましたが、3年目は登板機会を奪われ、肉体的にも精神的にも衰えていきました。

 もし小山さんがコーチを続けてくれたら、カネさんの400勝を抜いていたんじゃないかと思いますね。

 実は阪神に移籍した際に、広島の古葉竹識監督からも電話があって“ウチに来ないか”と誘いを受けていたんです。阪神に決まった後だったので断わったが、広島に移籍していても違った成績になっていたと思う。

 1975年は古葉さんの監督1年目のシーズンで、球団創設初のリーグ優勝をしている。その後も1979年、1980年、1984年と3度の日本一に導いている古葉監督に呼ばれて移籍していれば、扱いも丁寧だったはずです。

──米田氏がそう語るのは、金田氏の大記録を思い浮かべてこそだろう。勝ち星だけでなく、3388奪三振、投球回数5130イニングも、金田氏に次ぐ歴代2位だった。

 僕は400勝には届きませんでしたが、唯一、私の登板数の949試合はカネさんより5試合多かった。これだけは誇りです。やはり晩年の1勝はしんどかった。つくづくカネさんの凄さを思い知らされますよ。

●よねだ・てつや/阪急、阪神、近鉄で歴代2位の通算350勝を達成。通算626先発登板、1940失点、4561被安打などの日本記録も保持する。

※週刊ポスト2020年1月3・10日号

関連記事(外部サイト)