スー女が述懐 「朝青龍が1勝もできなかったライバル」

スー女が述懐 「朝青龍が1勝もできなかったライバル」

磋牙司と朝青龍の因縁とは?(写真:共同通信社)

 相撲ブームが沸騰している。「謎のスー女」こと尾崎しのぶ氏が、現在相撲コラムを週刊ポストで執筆中。今回は、一時代を築いた大横綱・朝青龍が1勝もできなかったライバルについて尾崎氏が綴る。

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 朝青龍の十両昇進は二〇〇〇年九月、普天王は初土俵からたった三場所目の二〇〇三年五月。華々しい出世劇であった。すでに横綱、小結となっている二人が、二〇〇七年十二月の天草巡業ではじけるような笑顔で写真におさまっている。なぜか。それは写真に写っているもう一人、磋牙司(さがつかさ)の十両昇進がうれしいから。

 一九九八年のインターハイ個人戦。準決勝で文徳高校三年の内田(普天王。一九八〇年生まれ)が明徳義塾高校の二年生ドルゴドスレン・ダシバドリ(朝青龍。一九八〇年生まれ)を下した。

 前年に高校相撲番付で大関であった内田(上にいた三好、若松はすでに高校生でなくなっているので、暫定で横綱)は、優勝候補の本命と見られていた。当然である。しかし決勝、内田の貫禄にまったくひるまなかった沼津学園二年の磯部(磋牙司。一九八一年生まれ)の打った下手出し投げに、場内に衝撃が走る。

 内田が高校横綱にならないとは、誰も想像していないことだった。しかもあんな小さな体の二年生に負けるとは。第七十六回全国高校相撲選手権大会は、優勝磯部洋之、準優勝内田水、三位伊藤豊とドルゴドスレン・ダシバドリの結果に終わった。

 一九九九年一月、ダシバドリは高校を中退して若松部屋に入門。明徳義塾では三年生に進級するところだったのだが、翌年には一歳多くなり高校生の試合に出場できなくなってしまうことがきっかけだった。同年四月、内田は日本大学に進学、アマチュア横綱を含め十四個のタイトルを獲得している。

 高校三年生になった磯部は、金沢大会で優勝。小学六年のわんぱく横綱から続く相撲街道を、着実に進んでいた。その後は東洋大学に入学。相撲部で一年からレギュラーを務め一年時と三年時の全国大会団体優勝には貢献したものの、個人ではタイトルを獲得することはなかった。

 力士になりたいと小学生のころから思っていたが、百六十七センチと低身長なためあきらめていた。しかし大学在学中の二〇〇一年より第二新弟子検査が実施されるようになり、身長問題をクリアして二〇〇四年三月、入間川部屋に入門。そのとき朝青龍はすでに五回の優勝を経験し、横綱として七場所目をむかえていた。

 もしもダシバドリ選手が一九九九年度も高校生として試合に参加できていたなら、磯部選手を破っていたかもしれない。逆に、磋牙司の高校卒業時に第二新弟子検査システムがあったならば、朝青龍は丸一年の相撲界の先輩ぶりをもって磋牙司を土俵にたたきつけただろう。

 五年の月日が流れる中で、二人の番付は離れ過ぎていた。その後十両に陥落した普天王と磋牙司は対戦が二度あり、磋牙司が二勝している(うち一回は不戦勝)。しかし横綱の朝青龍には、インターハイのリベンジの機会が与えられなかった。

 あの日徳島の相撲場で、一番強い選手を決めるために二人が戦っているのを朝青龍は土俵下から見上げていた。なぜ土俵で戦っているのは自分ではなかったのか。自分に勝った内田、内田に勝った磯部の強さを、体感して納得したかった。でも磯部の強さを上回る自信が今はある。

 子供のようにささいなことに固執するのが、朝青龍らしさだ。最強の男としていつか埋めたい穴だった。だから、磋牙司が十両に昇進した際には、その日が着々と近づいていると感じうれしくなったのだと思う。

 二〇一〇年一月場所、磋牙司は西十両筆頭で九勝。新入幕が確定した。第二検査での入門者の入幕は、豊ノ島に続く二人目。一六〇センチと少ししかなくても出世できるという手本として、現在の石浦や宇良の活躍につながっていると思う。

 しかし「磯部さん、長らくお待ちしてましたよ」と新入幕の磋牙司をうやうやしく手揉みでむかえる余裕は、朝青龍にはなかった。二月四日、突然の引退。対戦相手の胸とお腹にあて続けて頭髪が擦り切れている磋牙司は、今も土俵で戦っている。結局ダシバドリは、磯部に一勝もしていない。

※週刊ポスト2017年6月16日号

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