長崎宏子、宗兄弟ら 「モスクワ五輪不参加」をどう活かしたか

長崎宏子、宗兄弟ら 「モスクワ五輪不参加」をどう活かしたか

平泳ぎで圧倒的な実力を誇りながらモスクワ五輪で悲劇に見舞われた(写真/共同通信社)

 新型コロナウイルスの世界的流行によって2020年東京五輪が1年延期となったことで、五輪を目指していた多くの選手の運命が変わりそうだ。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、今から40年前、1980年のモスクワ五輪の不参加を体験した元代表選手たちとその競技は、どのような運命をたどったのかについてレポートする。

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 幻となったモスクワの悲劇のヒロインは、競泳の長崎宏子だろう。小学6年生だった彼女は、ボイコット決定後、生まれ育った秋田から夜行列車に乗り、モスクワ五輪の代表選考会だったはずの日本選手権に向かった。

「ボイコットがどういうことなのか、私にはわかっていなかった。泳げば記録が伸びるという伸び盛りにあった12歳の私には、モスクワの騒動は別世界で起きているような出来事でした。幸い、私はロス、ソウルの2大会にも出場できましたが、モスクワに出ていたらその経験値を2大会にも活かせたかなとは思います」

 長崎は引退後の1992年から一時期、JOCに籍を置いた。現在、JOCの会長は同じ幻の代表だった柔道の山下泰裕が就いている。

「常に選手目線に立って運営されている。選手の立場を誰よりも分かっているからこそ組織のトップとしてやりにくさもあるかもしれない。その点、うまくバランスが取れているようにも思います」

 モスクワにおける団体球技種目で、出場権を手にしていたのは、女子バレーボールと男子ハンドボールのわずか2競技だけだった。

「それだけに期待も大きかった」と話すのは、男子ハンドボールの蒲生晴明(中部大教授)だ。モントリオール(9位)にも出場していた蒲生が、26歳で迎えたモスクワ五輪は、日本男子にとって飛躍の舞台となるはずだったと振り返る。

「1978年の世界選手権では、12位とはいえ、ポーランドのような強国とも良い勝負ができて、手応えがあった。不参加が決まった時には、『なんで?』の気持ちしかなかった。それ以降、ハンドボール界は力を落としてしまった。手痛いボイコットでした」

 1988年ソウル五輪を最後に、日本のハンドボールは五輪に出場していない。

 また、エースの横山樹理や江上由美に加え、三屋裕子(現・日本バスケットボール協会会長)を擁した女子バレーボールは、1964年東京、1976年モントリオールに続く金メダルを狙った。しかし、コートに立つことすらかなわず、三代目の東洋の魔女にはなれなかった。

 茂と猛の宗兄弟は、1970年代から1980年代のマラソン界をライバル・瀬古利彦と共に牽引したランナーだった。現在はふたりが所属した旭化成の総監督を弟・猛が務め、顧問である兄の茂はマラソン指導だけでなく、気功の指導でも各地を飛び回る。コロナの感染拡大を受け、宮崎県の延岡を拠点とする名門・旭化成の陸上部は、集団で走ることはできず、スタート時間をずらし、部員が個別に走っているという。茂は言葉を選びながらこう話す。

「正直、東京五輪も1年の延期ではすまないかもしれない。選手というのは、大会という目標に向かって練習する。その目標がなく、練習すらできていない選手がほとんどでしょう。選手選考もやり直しとなるかもしれない。1年という時間は、選手を別人のように成長させることもあるし、その間にとんでもない選手が現れるかもしれない」

 モントリオールを走った茂と、同大会の代表になれなかった猛にとって、兄弟同時出場を目指したのがモスクワだった。1979年の福岡国際で歴史に残るデッドヒートを演じた当時23歳の瀬古と26歳の宗兄弟がモスクワの代表に。幻の代表となった三者は、4年後のロスでも代表に顔を連ねた。それが茂にとっては救いだった(瀬古は1988年のソウル五輪も走り、その年、引退した)。

 目前に迫っていた五輪がなくなる──そうした試練が、アスリートをさらに成長させ、選手寿命を延ばすこともあるのだ。

※週刊ポスト2020年5月8・15日号

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