記録か、道具か、物語か。「パラスポーツ」はもっと楽しめる

記録か、道具か、物語か。「パラスポーツ」はもっと楽しめる

陸上100mと走り幅跳びでパラリンピック出場を目指す小須田潤太選手(本人提供)

 パラリンピック東京大会の開幕まで残り1年を切った。コロナ禍で苦しみながらも競技と日常生活の両立に奮闘するアスリートたちの姿が日々、報じられている。そこで、パラスポーツをこれまで以上に楽しむ方法を考えてみたい。

 かつて障害者を扱った映画やドラマ、漫画などでは、恋愛の成就や自己実現といった主人公の目的を阻む壁として障害が扱われることが多かった。特にドラマは、聴覚障障害を扱った『愛していると言ってくれ』『星の金貨』(ともに1995年)や、車いすの女性との恋愛を描いた木村拓哉主演の『Beautiful Life』(2000年)など印象的な作品が生まれた。

 それらの作品は、一般の障害に対する理解を深め、共感を呼ぶ一方で、「安易だ」「あざとい」との批判も常につきまとった。そのせいでメディアの中でも、確かな知識がないなら障害について触れないほうがベターと考えられている節がある。

 それはかつてのパラリンピック報道にも見られた。1998年の長野パラリンピックまでは報道する側が「障害者」と表記することにさえ二の足を踏んでいた。今では考えられないが、当時は「障害者を見世物にしていいのか」という一般市民の声すらあったという。障害者のスポーツを見慣れていなかったせいだろう。

 ところが今では、障害者のスポーツは、純粋にスポーツとして扱われるようになった。パラリンピックの結果は、かつては新聞の社会面に掲載されていたが、今ではスポーツ欄になった。テレビのニュース番組も然りだ。

 パラアスリートを扱ったドキュメンタリーも、健常者と同じく、障害はアスリートたちに立ちはだかるさまざまな壁のひとつとして描かれるようになってきた。

 義足のランナーを扱ったマンガ『新しい足で駆け抜けろ。』(みどりわたる作、『ビッグコミックスピリッツ』に連載中)でも、主人公は過度に悲観したり、自暴自棄になったりせず、わりと淡々と競技にのめり込んでいく。そこがなかなかリアルなのだ。

 パラリンピック東京大会に陸上100mと走り幅跳びで出場を狙う義足ランナーの小須田潤太選手(29)もこう言う。

「ぼく個人としては『障害があるのにこんなことができるんだ!』という見られ方でいいと思っています。障害があるのは事実ですから、そういう見方をされることはプラスにとらえている。障害がなければ、いろんな人との出会いもなかったし、陸上というこんなに打ち込めるものにも出会えなかったでしょう。だからぼくは、自分の障害は武器だと思っているんです」

道具の視点からスポーツを観る

 今後、パラスポーツのすそ野が広がるかどうかは、他のスポーツと同じように「やって楽しい」「観て楽しい」と思えるかどうかにかかっていると言えるだろう。

 パラアスリートを道具の面から支える義肢装具士の沖野敦郎さん(株式会社OSPO オキノスポーツ義肢装具代表)は、“ツールスポーツ”の名称を提唱している。

「障害者のスポーツの中で道具を使うスポーツのことを、スキーやスノーボードなどと同じようにツールスポーツと私は呼んでいます。道具がアスリートのパフォーマンスに大きく影響するスポーツとして見たときに、単純に肉体表現として見るのもいいけれど、F1レースでマシンに興味をもって見るように、ツールの視点から捉えたら面白い。

 すると、ツールに興味を持った人がもっといいものをつくろうとする。いいツールができたらアスリートのパフォーマンスがさらに上がるという好循環になるはずなんです」(沖野さん)

 考えてみれば、スキーやスケート、スノーボードやスケートボード、自転車競技なども道具を使う競技に違いない。身体的な特徴を、いかに道具をうまく使いこなすことでカバーするかという点では、道具を使うパラスポーツと何ら変わりがない。前出の小須田さんもこう言う。

「ぼくもこの世界に入るまでまったく気づかなかったけれど、車いすにしても道具を使うことでのメカニックなカッコよさがパラスポーツにはあると思うんです。ぼくは、義足は単純にカッコいいと思っています」

 障害者と一括りにしがちだが、みな違った特徴があり、それぞれの身体的な制限の中で自分に合った技術を創造してもいる。腕に障害をもつ卓球やテニスの選手の中には、足を使ってサーブのトスアップをしている者もいる。

 考えてみれば、制限だらけなのがスポーツだ。サッカーはボールを手で扱えないし、ラグビーはボールを前に投げられない。そうした制限が大きいのがパラスポーツだといえる。

 一方で、すでに車いすバスケットや車いすラグビー、ブラインドサッカーでは、健常者が車いすに乗ったり、アイマスクをしたりすることで障害者と一緒にプレーしている。道具を使って身体機能を一部制限することで、誰もがフェアに競えるようしているわけだ。

 突き詰めていけば、障害者の「障害」は単なる身体的な特徴のひとつと捉えることもできるかもしれない。そうなると、「パラスポーツ」という呼び方自体があまり意味のないものに思えてくる。

 選手のパフォーマンスかストーリーか、それとも道具か。どこを切り口にして観るかで、来年の2020パラリンピック東京大会は、まったく違った姿で見る者の前に現れるに違いない。

●取材・文/岸川貴文(フリーライター)

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