照ノ富士が語った!「奇跡の復活勝利を果たすまで」
2020年08月07日 06時00分 日刊大衆

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奇跡の幕内復帰から奇跡の優勝へ。大相撲七月場所で日本中を感動の渦に巻き込んだ照ノ富士。
「個人的には、まずは勝ち越し」と、今場所前の『週刊大衆』インタビューでは、謙虚な目標を語っていた。
「こうやって笑える日が来ると信じてやってきた」優勝インタビューで、こう喜びを語ることになろうとは、本人も予想外だったのかもしれない。
「殊勲賞と技能賞をW受賞しての記念撮影では、会心の笑みを見せていました。2014年2月に新入幕し、翌15年2月に新関脇に。同年夏場所で初優勝し、三役昇進からわずか2場所で大関となるスピード出世でした」(相撲記者)
ところが、悲劇の始まりは15年秋場所。稀勢の里戦で右膝から崩れ落ち、大ケガを負ってしまう。
当時の心境を照ノ富士は『週刊大衆』の取材に、こう語っている(以下、〈 〉は取材時における照ノ富士の発言)。
〈大関2場所目の稀勢の里戦で、右膝をケガしてからなんです。それまでは、“どういう相撲を取っても俺は勝てる”みたいな意識があって、(中略)勢いで相撲を取っていたんですね。でも、「それじゃあ、ダメなんだ」と、初めて気づきました。ケガを含めて、自分の相撲に責任を持たないといけない……と〉
その後も、稀勢の里との因縁は続く。17年3月の春場所、V2を狙う新横綱、稀勢の里との優勝をかけた千秋楽の一番だ。
「稀勢の里は13日目の日馬富士戦で、左肩に横綱生命を縮める致命傷を負います。その後、2連敗して迎えた照ノ富士戦。判官贔屓のムードの中、館内には“モンゴルへ帰れ!”といった心ない野次も飛んでいました」(前出の相撲記者)
日本中を敵に回しての一戦は、稀勢の里が逆転優勝。その際の胸中を照ノ富士は、こう振り返っている。
〈(野次は)本当は聞こえていましたよ。自分だって人間ですからね……〉
照ノ富士もまた、このとき深い傷を負っていたのだ。
〈13日目、古傷を痛めてしまったのは自分の責任ですし、そういうことを人前で言うべきじゃないと思っていました〉〈どうせ自分はヒール(悪役)だから、何を言っても通用しないでしょ(笑)〉
そんな無理がたたってか、17年9月に大関陥落。すでに満身創痍の状態だった。
〈大関から落ちることが決まった時点で、引退を決意して、師匠(伊勢ケ浜親方)に、「辞めさせてください」と言いに行ったんです〉
この続きは現在発売中の『週刊大衆』8月24日・31日号で。