【連載】息子が読み解く“世界のオギムラ”〜卓球ノート#2 〜

写真:荻村伊智朗氏/提供:アフロ

日本卓球界のレジェンド、故・荻村伊智朗(おぎむらいちろう)氏の卓球ノートが自宅から発見された。本企画では、長男・一晃(かずあき)氏が、「ミスター卓球」とも呼ばれた父・伊智朗氏の人生を、“世界一の卓球ノート”から読み解く。第2回となる今回は荻村氏の都立西高時代の記録を振り返る。

西高卓球部日記・スコアブック 荻村伊智朗17〜18歳

ノート
写真:自宅から発見され西高卓球部日記とスコアブック/提供:荻村一晃氏

卓球部日記は「参加者」「練習内容」「練習の感想」「出来事」など、書き手である部員たちが好きなことを書いている。「fore hand」「side」などカタカナを使わずに英語(筆記体)で書かれているところが特徴的だ。

部員達の持つ掃除の意識が高く、室内競技は呼吸器系の病気が多いという時代だったと気づく。荻村もたびたび体育館の雑巾がけを一人で行い、最初は体力的に辛かったがそれが良いトレーニングになったと後述している。

スコアブックは「公式戦」「練習試合」「校内選手権」など多岐にわたる。

1949年12月に城北体育館で行われた「第二回東京都高等学校複選手権大会」から始まるノート。荻村ペアは準決勝、3位決定戦で敗れ4位だった。

日記によれば荻村は高2の夏に床で滑ってけがをし、夏休み中20日ほど練習が出来なかった。「滑った床のオイルを恨み、練習再開後の不調をスランプとごまかす自分に腹を立て、負けて八つ当たりをする自分に後悔した」。このような生々しい思いも日記には記されている。

しかし怪我をしていた時も卓球に役に立つのではないかと、荻村は囲碁を行った。当時、囲碁において新戦法が盛んになっていたり、テニスでも新たな戦い方が現れていたからだった。囲碁から戦法(戦術)を学び、攻守のバランスの大切さを卓球に活かそうと考えたのだ。

学校が卓球台を購入する予定があると告げた教師に関し、他のクラブにも同じ事を言うのだろうと皮肉る。「卓球のサーブはセコイ」と言った教師に「オープンハンドサービス」を説明するにとどまらず、卓球部の活躍ぶりなどを20分ほど話した。大人びたというか、生意気と思われてもしょうがない生徒だっただろう。

スコアブックには「試合名」「月日」「場所」とスコアが書かれており、()ではなく{}が使われているが理由はわからない。スコアがわからなくても対戦相手など、わかる限りの情報を記録している。


写真:荻村氏の書いた西高卓球部のノート。日本語と英語が混じった文体にてびっしりと書かれている。/提供:荻村一晃氏

スコアブックによると、1950年11月に行われた「第一回全日本高校選手権予選」において、ダブルスは予選通過したがシングルスは決定戦で敗れている。12月に行われた本大会では、3回戦で京都・朱雀高校のペアに敗れた。

日記には他の選手の技術的なことだけではなく、試合中にニヤニヤしている選手には苦言を呈し、ボールなど用具にもコメントしている。当時荻村は部外練習をよくしていたようで、時々他の部員と一緒にも行っていたようだ。他校生や他のスポーツ選手との交流も描かれており、当時メジャーだったとは思えないフェンシングの選手なども登場する。

フォアハンドロングで動き打ち合うプレースタイルの確立

フォームの美しさにもこだわっているようで、新入生にはフォームの確立から指導していた。

西高のプレースタイルを「フォアハンドロングで動き打ち合う卓球」と決めたのも、卓球に対する無知から来たようだ。


写真:高校生当時の荻村伊智朗氏/提供:荻村一晃氏

「カットは切るという意味だから、ボールがきっと割れやすい」「ショートはラリーが続くのでボールが割れやすい」と自分たちの懐が痛むボール代を心配して、消去法で決めたのだった。従ってサービスも前進回転のロングサービスが主体となり、荻村も卒業までこのプレースタイルを貫いたのだった。

フォアハンド主体の荻村は動こうとせずにバックハンドを多用する選手に否定的で、フットワーク練習もせずに動けないと言うなど何事かと怒っている。強打したいのであれば確実に入るように練習すべきで、打てると思ったら強打して良いわけはでないと記している。

応援は負けている時にこそ必要

他の選手の試合を見ることや応援に関しても重要だと考えていた。技術面だけではなく、全体の戦術や試合態度についても書いている。「応援は負けている時にこそ必要。勝っている時なら応援しなくても勝てる」とこだわりを見せる。

後に荻村が作った青卓会というクラブチームでも応援の練習を行っている。ポイントで一喜一憂するのではなく、相手を含め全体を考えての戦う応援をよしとした。味方が得点できなくても良いプレーの場合は拍手をするし、相手のファインプレーに拍手をすることもよしとしていた。

「よし!」「チャンス!」「いいぞ!」などのポジティブな言葉を、選手の名前と共に短くはっきりと大きな声で発声し、拍手も大きな音が出るようにみんなで練習をした。ネットインやエッジボールなどでの得点には発声せず、ただ拍手のみにするという指導もあった。

荻村は1970年代前半から戦術・戦略を分析

戦術と戦略は分けて考えていた。戦術はその試合に勝つための物。戦略は試合の勝ち負けだけではなく卓球を考える多面的な物。練習は試合を元にメニューを決め、練習のための練習を嫌った。


写真:荻村氏現役時代のラケット。その練習量の多さは一目瞭然だ/提供:荻村一晃氏

戦術・戦略を考えるという点では、ビデオがなかったコーチ時代に8ミリフィルムで試合を録画し、それを青卓会の少年達に分析の手伝いをさせていた。

大学卒業制作で映画を撮ったわけだし写真などを撮ることも好きだったこともあって、本人自ら8ミリフィルムで録画していたわけだ。

回転がわかる高校生クラスはサービスなど回転を、中学生はコースを記録していくわけだ。1本1本卓球台マークの上に1球目(サービス)・2球目(レシーブ)・3球目……と10人位が担当に分かれ日本代表選手の試合を記録し、その情報を元に荻村が分析していた。

情報分析をして戦術・戦略を考えることは現代では当たり前だが、1970年代前半にそれをコーチ個人が行っていた。それと同時に若い選手達に「考える癖と方法」のヒントを与えたのだと思う。

高校三年になれば受験勉強に専念するのが一般的だが、荻村は練習を続けることを決心する。時には母親に風呂屋に行くと嘘をつき3キロの道のりを走って卓球場に行き、1時間程度練習して走って帰るなど1日も休むことなく卓球を続けた。

(続く)

文:荻村一晃
企画協力:Labo Live

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