【連載】息子が読み解く“世界のオギムラ” 〜卓球ノート#3〜

写真:荻村伊智朗氏/提供:アフロ

故・荻村伊智朗(おぎむらいちろう)氏の卓球ノートが自宅から発見された。

「ミスター卓球」とも呼ばれた父・伊智朗氏の人生を、長男・一晃(かずあき)氏が“世界一の卓球ノート”から読み解く本企画。第3回となった今回は荻村氏の大学時代の逸話を紐解く。

荻村伊智朗、都立大へ

荻村伊智朗
写真:荻村伊智朗氏の大学時代の卓球ノート/提供:荻村一晃

まだ青臭い部分もあるとはいえ、その後の卓球人生の基盤はこの時代にあったのだろう。荻村の卓球に対する純粋な愛情、強い情熱、終わりのない探求心はこの頃に始まったことがわかるノート2冊だ。

そして卓球を続けながらも問題集を徹底的にやるという勉強法が功を奏し、都立大に入学することとなった。大学には3台もあり卓球環境は良かったが学生にとってクラブ活動は重要視されておらず、卓球部はなく毎日練習をする相手はいなかった。

そこで授業と授業の空き時間に一人練習をすることにした。10-25キロ程度のランニングなどのハードトレーニングで基礎体力を上げ、工夫されたサービス練習でスピードロングサービスという武器を手に入れ、壁打ちで早さと正確さを培った。

サービス練習では万年筆のキャップを標的にすることで集中力を上げ、ネットの高さを徐々に上げて練習での難易度を試合より高く設定した。そしてたくさんのサービス練習によってサービスのコントロールに特別大切なのは足の位置だと認識し、試合の時には床に目印を作るようにした。

後年荻村はボウリングにはまったが、サービス練習でのコントロールや力の使い方を当てはめたのだろう。コントロールを立ち位置と最初の目印であるスパッツ(卓球だと第一バウンドの位置)で出し、パワーを下半身から上半身へと伝え、最後の微調整を肘から指で行うという方法だ。アベレージが180オーバーというのもうなずける。

必ず返ってくる壁を相手に同じ所に返ってくる正確さと、試合ではあり得ない1分間に120往復(通常80往復程度)という早さで打ち込んだ。その結果100球位は続くようになったし、人間との練習ではラリー中に考える時間が出来た。

アメリカのトップテニス選手のサーブ&ボレー戦法を見て速攻に目覚めたり、世界選手権(ボンベイ大会・1952年)に出場する卓球代表チームの練習を新宿で見学して感動したり、一人練習と一流のものを見て刺激を受けていた大学1年生だった。

そして佐藤選手がボンベイ大会で優勝したことに興奮し吉祥寺周辺にビラを貼り、その後に行われた日英卓球での日本惨敗(15戦全敗)を2試合観戦して、これからは自分が頑張るしかないと決意した大学2年生のはじめだった。

以前より厳しく練習に取り組んだ荻村は、6月末に仙台で行われた全日本軟式卓球選手権で初優勝する。決勝ではカットの選手にロングではなくツッツキで粘り変化をつけ、チャンスボールをスマッシュするという戦い方で勝利した。

しかし1ヶ月後の都市対抗の準決勝でカットの選手に同じ戦法で最後に逆転負けをし、オーソドックスなロングを使った戦法で戦うべきだと考え直した。

日大へ転校 そして代表へ

荻村伊智朗
写真:荻村伊智朗/提供:荻村一晃

そして二ヶ月後に全日本選手権東京予選を第1シードで迎えることになった。

しかし決定戦で明治大学のカットマンと対戦し、未成熟なオーソドックスな戦法で1セット目を取られ、あわてて以前の戦法に戻したがその練習はしていなかったため負けてしまった。

人前で泣いてしまうほど悔しい敗戦だったが、来年全日本に出場するために死にものぐるいで練習しようと心に決めた。やはり練習相手がいるよりよい練習環境でやりたいと思い、強く開放的な日大に転校することにした。

しかし普段の練習では1台しかないという大誤算に見舞われる。1回負けると一時間以上順番が回ってこない。最初はトレーニングや他の選手を研究したり、図書館に行ったりしたが、これでは限界があるから特別な工夫が必要だと思った。

そこで母に映画のプロットを書くために易者を研究したいと言ってお金をもらい、高島易断というところに人物を研究するために3ヶ月位通い、相手の考え方の特徴を捉える訓練をした。それは後々役立つことになった。

日大で上手な相手と練習した後、町の卓球場で練習するという生活で成長していった。秋のリーグ戦では単複10戦全勝で日大の優勝に貢献し、その後の国体でも東京を優勝に導いた。

アジア選手権の候補合宿には最後の一人としてギリギリ呼ばれたが、3回の合宿で行われたリーグ戦で通算1位となり、はれて代表に選ばれた。アジア選手権では団体優勝の主軸となったが、個人戦では同士討ちで破れた。

全日本選手権に出場 NO.1カットマン藤井選手との対戦

そして11月末、ついに全日本選手権に初出場を果たす。

翌年にロンドンで行われる世界選手権の代表に選ばれるためには、とても大切な試合だとわかっていた。しかし1週間前に発表された組み合わせを見て愕然とした。16決定でシェークのカットマンNO.1である藤井基男選手と当たることになっていた。藤井選手はヨーロッパのカットマン対策としてナショナルチームの合宿に招集される実力者で、荻村も危機感を覚えた。しかも大会直前での練習試合で0-2で負けてしまった。

早めに開催地の奈良に入り、戦術変更に伴う練習を行った。ロングサービスを狙い打つ事と、ショートサービスからの三球目攻撃という速攻で勝負することにした。それは東京で負けた時とは全く違う戦術だった。
 
藤井選手が「奈良で練習を見た時、いやな練習をしているなと思ったんですよ」と後に語っていた。

そして難関を突破した荻村はシングルスとダブルスに優勝、ミックスで準優勝という好成績を果たした。それによって世界選手権の代表に選ばれることになった。

後日監督に全日本の組み合わせのことを質問した時、選考のために意図的にカットマンと当てたことを聞かされた。

代表に選ばれた荻村であったが、参加するためには負担金を払う必要があった。その額は当時の80万円。カレーライスが学食で35円の時代なので、今だと800万円以上になるかもしれない。払えない選手が出ることを考慮して、出場枠4名なのに代表6名を選ぶという状況だった。母親に至っては、払えないと大学の監督に辞退を申し入れたほどだった。

ロント?ン大会選手団
写真:世界選手権ロンドン大会選手団/提供:荻村一晃

しかし吉祥寺の卓球場(武蔵野卓球場)のメンバーが募金活動を提案してくれた。選ばれてから吉祥寺近辺の駅で募金活動を行ってくれ、荻村も3ヶ月ほど自ら街頭に立った。

よくわからない若者の夢に自分の大切なお金を寄付してくれる4万人を超える人々に、荻村はおなかの芯から熱いものがこみ上げた。街頭募金だけではなく著名人などに戸別訪問を行い寄付を募った結果、親戚や大学も負担してくれようやく参加費が集まった。

男子は6人とも負担金を準備できたので、合宿は4人を選抜する厳しい合宿となった。何度かの総当りリーグ戦での結果が低迷していた選手は、プレッシャーから泣き出すほど壮絶だった。

その合宿にも最高の練習相手がほしいと選手達が思い、選手達自身が費用を負担するから日本のために参加してほしいと藤井選手に頼んだ。男気のある藤井選手は合宿に参加したが、毎日全員と休むことなく練習したため、階段の途中で休まなければ登れないほど疲労困憊した。そして合宿後には病気になり、1年間大学を休学することになってしまった。

荻村を含め代表全員がロンドンで団体優勝できたのは、藤井選手をはじめ練習相手をしてくれた選手達のおかげだと感謝した。


(続く)

文:荻村一晃
企画協力:Labo Live

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