全盲のスイマー「木村敬一」が語る決意 「人が泳いでいるのを見たことがない」ハンディを強みに

全盲のスイマー「木村敬一」が語る決意 「人が泳いでいるのを見たことがない」ハンディを強みに

木村敬一

 前回のリオ大会では「もうこれ以上はがんばれない」というほどがんばったのに、金メダルには手が届かず。このまま日本にいてはダメだと、逃げるようにアメリカへ留学。そこで「泳ぐ楽しさ」に気づいた。全盲のスイマーは、今度こそ“一番”になることを誓う。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

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 僕は2歳で視力を失いました。全盲の僕が泳ぐことで、「光を失った人間でもこれだけのことができるんだ」と多くの人に知ってもらえれば嬉しいですし、「パラリンピックに限らず、スポーツ自体の素晴らしさを伝えられたらいいな」と思っています。

〈と言うのは、パラスイマーの木村敬一選手(30)。落ち着いた口調で、一語一語、言葉を選んで話す姿勢が印象的だ。〉

 パラ水泳の種目は、自由形・背泳ぎ・バタフライが「S」、平泳ぎが「SB」、そして個人メドレーが「SM」という記号で表されますが、さらにそれぞれが障害の種類と程度によって細かく分類されています。僕が出場するのは「100mバタフライ(S11)」などのクラス。「S11」は視覚障害の中でもっとも重い区分です。

〈木村は、この種目では2015年から世界ランキング1位を維持し続けている実力者だ。東京大会は08年の北京大会から数えて実に自身4度目のパラリンピックであり、すでに6個のメダルを手にしている。だが金メダルだけがまだない。〉

 16年のリオデジャネイロ大会は、「金メダルを獲る!」と意気込んで臨んだが銀メダル2個(50m自由形、100mバタフライ)、銅メダル2個(100m平泳ぎ、100m自由形)という結果でした。結局「金」は獲れなかったので、リオは僕にとっては実質的には負けの大会でした。

〈あれから5年。“悲願の金”を獲るためにやるべきことはやってきたつもりだ。だが、木村にはライバルたちと比べて大きく異なる点がある。〉

 今、世界で活躍している全盲の視覚障害の選手は、ほとんどが後天的に失明した“中途障害”の人たちです。泳ぎを習得する段階では視力に関するハンディはなかった。つまり、水泳を知る前に失明した僕よりは「健常者に近い泳ぎ方」ができるはずなんですね。

 でも、僕の場合は、そもそも人が泳いでいるのを見たことがないわけですから、理想のフォームを視覚的にイメージすることができません。正直に言えば、自分のフォームが正しいのかさえわからない(笑)。

〈本人はそう笑い飛ばすが、中途障害の人との差は計り知れないほど大きなものだろう。幼かった木村の視力を奪ったのは先天性の「増殖性硝子体網膜症」という難病。聞きなれない病気だが、特殊な網膜剥離である。3度に及んだ手術も甲斐なく、木村は物心がつく前に失明した。水泳と出合ったのは小学4年生の時だ。〉

「水の中なら怪我をしにくいはず」という理由で母が水泳を勧めてくれました。もともと活発な子だったようで。目が見えないのに走り回って、あちこちぶつかって、よく怪我をしていたんですね。

 泳ぐのは楽しかったです。僕にとって「見えない」というのは“日常”なので、水に対する恐怖心というのも最初からあまりありませんでしたし、クロール、平泳ぎ……と新しい動きを覚えていくのが楽しかったんでしょう。小学校を卒業するまでには、4泳法もマスターしていました。

〈小学1年生から盲学校の寄宿舎で生活していた木村だったが、中学からは地元の滋賀県を離れ、東京・文京区の筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に進学する。これは「広い世界で、より多くの人と過ごしてほしい」という父の願いでもあった。〉

 中学では水泳部に入ったんですが、この時、高校の水泳部の顧問をしていたのが寺西先生です。


■「ハマったな、今」


〈寺西真人氏(62)は、木村と同じ全盲の河合純一氏(バルセロナからロンドンの6大会に出場し、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得)を一流のパラスイマーに育てた名伯楽であり、“タッパー”の第一人者でもある。〉

 視覚障害のパラスイマーは“タッパー”と呼ばれる人がいないと試合ができません。ターンやゴールタッチの際、両方のプールサイドにいるタッパーが、先端が柔らかい「タッピング棒」で選手の頭をポンと叩いて、合図してくれるんです。要するに「タッピング棒」が目の見えないパラスイマーの“眼”の役割を果たしてくれるんですね。

 ひとりで練習する時は、「このプールの端から端までは40掻き」というふうにストロークを数えているので大丈夫なのですが、0・01秒を争うレースでは必ずタッパーが必要になってきます。しかも、タイミングや場所がわずかにズレるだけで、ターンがうまくできなかったり、ゴール手前の最後のひと掻きの伸びが違ってきます。タッパーのタッチひとつが試合結果に大きく関わってくる。

 寺西先生には中学の時からずっとお世話になっています。僕たちは多くの人の助けを借りて泳いでいるので、コーチやスタッフには本当に感謝しています。

〈木村の泳ぎを見ると、ある特徴がわかる。常に右手がコースロープに触れるくらいの位置をキープして泳いでいるのだ。自分の位置を確認しながら蛇行などのロスをなくすためだという。だが、時にはコースロープにぶつかることもある。〉

 できればコースロープには衝突したくない。それだけタイムが落ちますし、とくにバタフライの場合はコースロープに体ごと乗り上げてしまうこともあるので、ダメージが大きい。それに硬いコースロープに手をぶつけると、指の付け根がぱっくり切れてしまうこともある。だから、「怪我はしにくい」と思って始めた水泳で僕はしょっちゅう怪我をしてる(笑)。

 でも、これは僕の長所だと思うんですが、それこそ2歳の頃からどこかにぶつかったり、転んだりというのが日常茶飯事だったから、そういうアクシデントには強いんです。中途障害の人たちよりは確実に強い。

 僕は自分がきれいなフォームで泳げているとも思わないし、水泳のセンスがあるとも思いません。でも、だったら、自分の強さを生かしてパワーで勝負してやろうというわけです。

〈コースロープにぶつかっても勢いが衰えない力強い泳ぎを目指し、リオ大会の前から筋トレと1日5食の食事で肉体改造してきた。木村には、視覚的なイメージこそないが、理想とする泳ぎがあるのだ。〉

 僕は目は見えませんが、両手両足は健常なわけです。ということは、健常者のトップ選手と同じ動きができてもおかしくない。だから、彼らがどういう泳ぎをしているのか、そういう情報は欲しいですし、自分の試合の後は詳細なレース分析をして、0・0何秒というスケールで体の動きをイメージして自分の体に落とし込んでいきます。

 理想の泳ぎというのは、すごく感覚的なもので、僕らは「ハマってる」という言い方をするんですけど、いいフォームで「ハマっている」ときは、……まぁ「ハマってる」としか言いようがないんですが、楽だけど速く泳げるフォームというのがあって、「あ、ハマったな、今」とわかる瞬間があるんです。それを連続させていければ「理想の泳ぎになるのかな」と思っています。

〈木村はリオ大会の後、2018年から新しい環境を求めてアメリカに練習拠点を移した。〉

 リオ大会は「もうこれ以上がんばれない」っていうくらいがんばったのに、金メダルには届かなかった。だから、「これまでと同じ練習ではダメだ」と思ったし、そのまま日本にいて、東京大会を目指す自信もなかった。環境を変えてフレッシュになりたかったんです。前向きなチャレンジというよりは逃げの一手ですね。

 でも2年間のアメリカ留学は大きなプラスになりました。東海岸のボルチモアに拠点を移して、練習はロヨラ大学のプール。ここで多くのパラリンピック金メダリストを育てたコーチから指導を受けました。アメリカで生活してみて楽観的になれたんですよ。

 練習はやっぱり向こうでも厳しいんですけど、アメリカ人の選手たちはそんな時でも楽しそうでした。「練習の先には楽しい試合があって、そこで活躍する自分をイメージするとすごくワクワクするんだ」ということをよく言っていました。それを聞いて、「それって僕らが幼い頃にスポーツを始めた“原点”だよな」って思えたんですよ。「スポーツは楽しくやらなきゃ」っていうすごく基本的なことに気づかせてくれたんです。

〈アメリカ留学を経て、木村は、これまでの自分の頑張りを素直に肯定できるようになり、「レースにも自信を持って臨めるようになった」と言う。メンタル改善の効果は大きく、渡米後の2年間で、5種目で自己ベストを更新。19年の世界選手権では金メダルを手にした。

 しかし、2020年、世界は大きく変容した。〉

 オリンピックが延期になったことはとても残念でした。緊急事態宣言の間はほとんど練習できませんでしたし、自ずとスポーツ選手という職業の存在意義だったり、アスリートのキャリアについて考えたりもしました。だけど、今はレースに集中するだけです。

〈パラスイマー・木村敬一の世界を想像してみる。スタートして飛び込んだプールには暗闇が広がっている。頼りにできるのは右手で微かに存在を感じるコースロープだけだ。ほかの選手の動きはほとんどわからない。歓声も聞こえない。そんな中、思い切り水を掻いて、蹴って、必死に進んでいく。タッパーの存在を除けば、ゴールするまで自分ひとりの孤独な戦いだ。〉

“一番”になりたいですよね。僕は表彰台に上がっても国旗は見えないし、「金メダルが欲しい」とか言っても色もわからないから本当はメダルは紙でも何でもいい。でも、表彰台の一番高いところで君が代を聞きたい。そう思っています。

取材・構成=芹澤健介

木村敬一(きむらけいいち)
1990年滋賀県生まれ。東京ガス勤務(東京2020オリンピック・パラリンピック推進部所属)。筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)高等部3年でパラリンピック北京大会に出場して入賞。日本大学在学中のロンドン大会で銀、銅一つずつ。リオ大会では、銀、銅二つずつ日本人最多の四つのメダルを獲得した。

「週刊新潮」2021年8月9日号別冊 掲載

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