元日本代表・羽生直剛が明かすオシム元監督の素顔 最後に遺した「名言」とは

元日本代表・羽生直剛が明かすオシム元監督の素顔 最後に遺した「名言」とは

「オシム・ジャパン」が続いていたら……

 サッカーファンのみならず、多くの人を魅了した元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が亡くなった。享年80。なぜかくも氏の「言葉」は日本人を引き付け、語り継がれるのか。親交のあった三人がその理由を語る。

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〈「終わるまではすべてが起こりうる」

 人生はだいたいそうだし、サッカーでは常にそうだ〉

 オシム氏の著書『日本人よ!』(新潮社刊)にはこんな一節が登場する。人生とサッカーを重ね合わせて紡がれた言葉は、ジェフ市原(当時)で監督だった時から「オシム語録」と呼ばれ、人気を博した。

 そのオシム氏が今月1日、オーストリア・グラーツの自宅で死去したと報じられた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のオシム氏は旧ユーゴスラビア代表監督として1990年のW杯イタリア大会でチームをベスト8に導いた知将として知られる。日本でのキャリアが始まるのは2003年、ジェフの監督に就任してからだ。


■ビッグクラブからのオファーがかかるほど


「その頃のオシムさんはヨーロッパサッカーの最前線にいて、レアル・マドリードなどのビッグクラブから声がかかるほどでした」

 とは、オシム氏の日本での代理人を務めていた「アスリートプラス」代表の大野祐介氏。

「オシムさんが日本に来たのは、報酬の額ではなく、チャレンジに値する意味を見出したからだと思います。しかも、上から目線で“ヨーロッパのサッカーを教える”という態度はとりませんでした。日本人の特性や文化を踏まえ、日本サッカーを強くしようという真摯な気持ちがあったんです」

 06年、代表監督時代に発した「日本代表のサッカーを日本化する」という言葉はつとに知られる。


■フランス語、ドイツ語も操る知識人


 国際ジャーナリストでオシム氏の通訳だった千田善氏は、

「オシムさんは多民族がひしめくサラエボで育った過去が強く影響していたのか、異文化への好奇心が旺盛でした。住んでいた千葉の舞浜近くのスーパーでアジを買ってきて、三枚に下ろすこともできた。刺身も食べられますし、納豆以外、日本食が大好きでした」

 また、一流の知識人だったと続ける。

「フランス語やドイツ語も操り、東京の八重洲ブックセンターでフランスの『ル・モンド』や国際情勢誌、ドイツの週刊誌などを買って届けるのも私の仕事でした」

 そのオシム氏が嫌っていた日本語が「切り替え」「しょうがない」だった。

「ミスした時の“気持ちを切り替えよう”という発想をオシムさんは許せなかった。失敗をしたら原因をきちんと考えなくてはいけない。ミーティングや練習などでこの二つの言葉が聞かれた際は、鋭く反応し“そうではない”と言い返していました」(同)


■「もっと上を見ろ、空は果てしないぞ」


 07年、脳梗塞で倒れ、代表監督を志半ばで退任。その後は回復し、日本サッカー協会のアドバイザーに就任するも、09年に離日し、以後はグラーツとサラエボで暮らしていた。

「最後に会ったのは、18年の年末でした」

 と語るのはジェフと代表時代にオシム氏の薫陶を受けた元日本代表の羽生直剛氏(42)だ。いまはスポーツマネジメント会社「アンビション22」の代表を務める。

「サラエボのレストランで食事をし、“なぜ指導者にならないのか”と聞かれました。自分は起業したいのだと打ち明けると、“やればいいじゃないか”“もっと上を見ろ、空は果てしないぞ”と仰ったんです。そして、野心的という意味の“アンビシア”という言葉を紙に書いて渡してくれた。それが会社名の由来になりました。監督時代も選手を鼓舞する術に長けていて、“この人のために頑張ろう”と思わせる監督でした」


■優れた日本論


 改めてオシム氏の言葉について千田氏は、

「その発言はサッカーという枠を超えて、優れた日本論になっていました。さらに、厳しい発言であっても、“日本人よ、もっと自信を持て”と我々を励ましてくれるものだった。だからこそ広く愛されたのではないでしょうか」

 最後まで日本への思いを持ち続けており、

「去年はオンラインで3回ほどお話ししました。外出する回数は減っていましたが、目つきも鋭く、話しぶりも変わっていなかった。“東京五輪に行けなくて残念だった。もう一度日本に行きたい”と話していたのが印象的でした」(大野氏)

 晩年、グラーツの自宅では、サッカー専門チャンネルをザッピングするのが日課だった。そこでヨーロッパに渡った新たな日本人選手を見ると、「どんな選手か」と気にかけていたという。

「週刊新潮」2022年5月19日号 掲載

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