オールド・ラグビーファンに捧げる「名将物語」(2) 上田昭夫・慶應大学監督

 前回に続き、日本ラグビーの伝説的名将を描いたノンフィクションを『指導者の条件』(黒井克行・著)から抜粋して掲載しよう。今回は上田昭夫(1952〜2015年)。低迷していた慶應大学ラグビー部監督として、猛練習で日本一を達成した名監督だ。フジテレビのキャスターとしてご存知の方もいるかもしれない。一見、甘いマスクの上田氏だが、指導の厳しさは相当なものだったようだ(以下、『指導者の条件』より)

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「俺たちが欲しいのはこれじゃねぇ!」

 1本のローソクが灯るだけの薄暗いロッカールームに、その声は響き渡った。と、同時に9日前に手にしたばかりの「大学日本一」が刻まれた賞状は、監督によって真っ二つに破り捨てられた。

 1986年1月15日、東京・国立競技場。ラグビー日本選手権のホイッスルを直前にした慶應義塾(以下、慶應)大学のロッカールームでの出来事だった。日本ラグビーのルーツ校である慶應は、その頃低迷久しく、“古豪”の称号だけが唯一の冠になろうとしていた。だが、前年度の監督交代を機に復活の兆しを見せ、この年度は「大学日本一」を取り戻していた。

 破られたのは、それを称える賞状だった。大学日本一に甘んぜず、日本一の栄冠を奪取せんとする監督の狂気に、選手たちは目を見張ったが、ほとんど間髪を入れずに「ウォーッ!」という雄叫びでその“暴挙”に応えた。

 上田昭夫。元慶應ラグビー部監督である。2015年7月、難病のアミロイドーシスのため62歳の若さでこの世を去ったが、彼のラグビーへの情熱を物語るエピソードは枚挙に遑がない。

 栄光の証を目の前で紙屑にされた渡瀬裕司(当時4年)は、こう語る。

「ギョッとしたのは間違いない。ただ上田さんは本当に社会人を倒し、日本一になるつもりだった。僕たちは当初、学生代表として日本選手権に出られるだけでよしとしていたところがあった。でも試合の2日前、上田さんと合宿所の風呂に一緒に浸かりながら『日本一になるとならないのとでは大違いだ』と強く言われた。僕たちも真剣に『勝たなくては』と思うようになっていた」

 実は前年度にも同様の型破りなパフォーマンスで檄を飛ばしていた。

 84年、上田は慶應最後の切り札として31歳の若さで監督に就任した。対抗戦グループで優勝を争う明治戦を前にした、これもロッカールームでのことだった。160センチと小柄な上田は天窓からの薄明かりを背に、大柄な選手の前に仁王立ちして、ブレザーの左胸に映える伝統の慶應ラグビー部のエンブレムを右手で鷲掴みに剥ぎ取るや、それを机に叩きつけた。そして、「ここに勝利を誓え! 慶應の誇りに賭けて!」と吼えたのだ。

「あの時も皆興奮し、半ば錯乱状態でロッカールームを飛び出していた」(渡瀬)

 選手の闘争心はいやが上にも高まり、明治を撃破、続く早稲田との全勝対決も制し、対抗戦グループで優勝、同志社との大学選手権決勝戦にまで駒を進めた。

 この同志社戦の時も、上田は100円ライターを持ち出して火をつけ、

「こんな炎でも焼き尽す力があるんだ。白き灰になるまで燃え尽きてこい!」

 とロッカールームから送り出している。

 上田は慶應幼稚舎からそのまま附属の中、高、大学と歩んだ生粋の慶應ボーイだ。大学ラグビー部では主将を務め、卒業後は東京海上火災保険に就職する。だが日本代表に選出されるや半年で退職、プレーに打ち込みやすい環境を求めてトヨタ自動車工業に移り、1977年度の日本一のメンバーに名を連ねた。

 その間、母校慶應はライバル早稲田に大きく水をあけられ、他校の追随も許して、不振に喘いでいた。上田はOB会で、旧態依然たる上下関係にも臆せず、硬直した体制に真っ向から異を唱えて監督に志願、火中の栗を拾うことになった。そして監督2年目、冒頭の賞状を破いた後、見事「日本一」の称号を手にしたのだった。

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 もっとも、上田はそうしたトリッキーなだけの指導者ではない。

「名将といえば“戦術に長けた人”なのだろうが、まずはあの人は組織を作るリーダーとして秀でていた」

 と先の渡瀬は言う。

 高校日本代表や花園ラグビー場で活躍した選手を軒並み揃える他の強豪校に比べ、受験難関校でスポーツ推薦枠がない慶應には、もとからハンデがあり、部員は附属高出身者がほとんどを占める。そんな中、上田は外様の高校日本代表で大阪・天王寺高出身の松永敏宏を主将に指名した。

 上田にとって主将は、選手のリーダーであり仲間であると同時に、監督・コーチら指導者の仲間でもある。主将はメンバーと一線を画さなければチームは強くならないという考え方に立っている。また、コーチもポジションごとに配置して任せ、自身は全体を統括する監督としての組織図を作り上げた。

 2001年、上田のもとで最後の主将となった野澤武史は組織を作り、動かす情報収集と運用力に舌を巻く。

「上田さんの脳には100名もの部員全てのデータが入っていた。身長体重から出身校、家族構成とその環境といった個人情報はもちろん、練習や試合での動きもインプットされ、一対一で対話しては性格も把握してデータとして叩き込む。そこで分析されたものが試合のメンバーや戦術となって弾き出されていた」

 上田にも“理想とするラグビー”はあったろうが、それをグラウンドで求めたことはなかった。そこにいる選手だけが与えられた駒であり、それをいかに鍛え上げて勝つか。朝令暮改は日常茶飯事、いま勝てる可能性のある選手だけを求め、過去の実績に拘ることもなかった。

「選手の特性を見極める力は凄かった。Bチームの試合でトライを量産し、レギュラーでも申し分ない選手をいつまでたっても起用しなかったことがある。本人も腐りかけていたところ、大一番の大学選手権に入って使い始めた。大学日本一のために、秘密兵器としてずっと温存していた。本人も『俺の時代が来たぜ』とノリに乗って決勝トライも挙げた。上田さんは常に先を見越していた」(野澤)

 上田は次のように語ったことがある。

「選手が何を求めているかを理解し、何を提供してあげられるか。一人一人を理解するためには情報が必要であり、指導者である監督には重要なことである」

 もう一つ、上田を特徴づけるのは、進取の気性の持ち主であることだ。

「新しいことに対する探求、挑戦、意欲はハンパじゃなかった」

 と、渡瀬は語る。その一つがNASAが開発した「ヘビーハンズ」という3ポンド(1・36キロ)のダンベルだった。練習前、それを両手に持たせて1周1・8キロのクロスカントリーコースを5周走らせた。練習前にこんなハードワークをさせるチームなどなかった。

また技術的には「ハンズアップ」。パスの受け手が「ここに放れ(ハンズアップ)」と両手を高く構えて目標を示し投げ易くさせる、受取りや次の動作に移り易い構えだ。今では当たり前だが、30年前に上田が初めて取り入れたものだ。

 またコーチとして日本を代表する“タックルマン”として知られる早稲田OBの石塚武生を招いたこともあった。それまでの慶應ではあり得ない人事だった。

 監督1年目は、1年生から試合に出ていた経験豊富な4年生中心のエリート軍団が大学選手権準優勝を果たした。このため翌年は大きく穴が開いた。上田は、

「お前たちの目標は前のチームで、それがライバルだ」

 と、練習量を前年の1・5倍にした。夏合宿はまさに血反吐も吐く厳しさで、練習を終えるとグラウンドから寮に辿り着くのがやっとだった。終わってみれば、練習量は2・5倍にもなっていたという。

「反発心もあったが、“練習は嘘をつかない”ことを体験してしまった。やれば結果は必ずついてくると信じるまでになっていた」(渡瀬)

 目標を掲げ、それを達成するために何をなすべきかをしっかりとイメージさせ、厳しい練習を納得させる。選手はその先で待っている勝利の美酒を信じ、一枚岩となったのである。

 蛇足ながら最後に少し冒頭のエピソードに触れておく。

 破られた賞状はコピーだった。胸元から剥ぎ取られたはずのエンブレムはマジックテープで留められていた。試合後には元の位置に戻され、上田は涼しい顔をしていたという。また、上田はノンスモーカーで100円ライターに用はない。

 芝居がかっている。だが厳しい練習を乗り越え、監督を信じ切っていた選手には、まったく違って見えただろう。それは勝利への仕上げとして入念に計算されたパフォーマンスだったのである。

デイリー新潮編集部

2019年10月27日 掲載

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