高橋尚子が語る“運命を変えた”瞬間 「小出監督」との15分間の面会で(小林信也)

「私は弱かったので、オリンピックなんて考えたこともありませんでした」

 高橋尚子が言う。

 高校2年の時、初めて岐阜県代表に選ばれ、全国都道府県対抗女子駅伝に出た。結果は区間順位47人中45位。そのころ、“才能”という言葉を高橋に重ねる者はいなかった。いや、だからこそ、高橋は悲観もしなかった。

「結果は悲しく恥ずかしかったけど、県代表になれてうれしかった。目の前の目標を追い続けて少しでも伸びたらうれしい。それが長く続いた理由だと思います」

「夢を持て」「目標が大事」多くの子どもがそう強いられ、急かされて生きている。夢や目標は「いいもの」だという思い込みが日本社会を覆っている。だがスポーツ取材を重ねると、夢や目標は案外空しいもので、挫折や苦悩を引き起こす要因にもなると知らされる。

 陸上を始めたのも、「軽い決断だった」と高橋は振り返る。中学に入って部活を選ぶ時、

「バスケか陸上かで迷ったんですが、陸上の方が、新しいものがたくさんあった。ピンのついたスパイク。かがんで走り出す時のスタート・ブロック。極めつきはピストルです。刑事ドラマでしか見たことのない鉄砲を私も鳴らしてみたいと思った(笑)」

 両親が小学校の先生だった影響で、高橋も「将来は学校の先生になって陸上を教えたい」と思っていた。県岐阜商を選んだのは体育より商業科の方が先生の採用枠が多い傾向にあると教えられたからだ。

■師に「3年ならやめろ」


 高校3年の春、山梨学院大で箱根駅伝を走った中澤正仁が顧問になった。その中澤に教えられた言葉が高橋の大きな支えになった。

〈何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く〉

 高橋が言う。

「陸上は、結果は見えても成長が目に見えない競技です。試合のない時期も長い。いまやっていることが身になっているのか。不安な思いをかき消すのに、“下へ下へと根を伸ばせ”はすごく私を励ましてくれました」

 大阪学院大在学中、1500メートル、3000メートルで優勝を争う選手に成長した。実業団8社から勧誘も受けた。

「卒業後は先生になるつもりでしたが、もう少し陸上を続けたいと思って」

 3年間だけ続けたいと恩師・中澤に電話で相談した。すると、中澤が怒った。

「3年ならやめろ。いま日本で一番の名コーチと言われる小出義雄監督の下でやる覚悟なら応援する」

 まさか、ありえない。

「それは無理です」

 高橋は即座に言って電話を切った。しかし、中澤の言葉が高橋の思いを変えた。先に8社をすべて断り、大学の顧問に「小出監督に会う方法はありませんか?」と相談した。なんとか15分だけ会えることになった。

「うち、大学生は採らないから、ごめんね」

 いきなり小出に言われた。高橋は食い下がった。

「練習だけでも見せてもらえませんか」

「北海道で10日だけ合宿をやるから、その時なら」

 小出が言った。高橋は内心「やったあ」と叫んだ。

「扉をこじ開けたその時が勝利の瞬間だったかもしれません」

 10日間、次元の違う厳しい練習に懸命に食らいついた。先輩で世界陸上の女子マラソンで優勝した鈴木博美につい最近、会った時に言われた。

「最初、合宿に来た時、いきなり私に、“小出監督に目をかけてもらう方法を教えてください”って、聞きにきたよね」

 鈴木に、「何か見どころを見せる。思い切って前に出るとか、1本でも前に付くとか」と助言されたとおり、高橋は目の前の1本に力を注ぎ尽くした。

 最終日、小出に呼ばれた。

「給料安いけど、契約社員で来るか?」「行きます!」

 だがまだオリンピックは頭になかった。3年目の夏、練習パートナーを務めた鈴木が世界陸上で優勝。それを見て、「自分も4番くらいには入れたかもしれないと思った」。オリンピックが視野に入ってきたのは、ようやくそのころだった。

■レース当日のメニュー


 オリンピック出場を手繰り寄せ、大きな期待を得たのは、1998年の名古屋国際女子マラソンだ。

「大事な大会の時は1カ月前から毎日の練習メニューを書いた紙を渡されます。でも私は次の日のメニューしか見ませんでした」

 大会前日、レース当日のメニューを見ると、“日本記録”とだけ書いてあった。

「“そんなの無理”と思いました。自己記録より6分も速いタイムです。でも、ここまで練習をやり遂げてきたのだから、自分で壁を作るのは違うかなと」

 結果は2時間25分48秒。小出の“予定”どおり、日本記録を更新した。

 シドニー五輪当日の予定は何が書かれていたのか?

「何も書いてありませんでした。何も指示がなくて、自由に走って来いって」

 2000年9月24日。リディア・シモンとの闘いを制して金メダルを獲った。

「最後の200メートルはものすごくきつかった。でも、私とシモンさんだけがレースの空気のピリピリ感を切り裂くように走って行ける。すごく気持ちのいい時間でした」

 目の前の課題を追い続け、気づいたら誰もが“夢”と呼ぶ頂(いただ)きにたどり着いていた。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

「週刊新潮」2021年1月28日号 掲載

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