“初代ドリームチームの衝撃”から4年。シャックら豪華メンバーが「テロの恐怖」とも戦ったアトランタ【五輪史探訪】

“初代ドリームチームの衝撃”から4年。シャックら豪華メンバーが「テロの恐怖」とも戦ったアトランタ【五輪史探訪】

初代に比べネームバリューは劣るものの、実力的には遜色ないメンバーが“ドリームチーム3”に集結した。(C)Getty Images

バルセロナ五輪での“初代ドリームチームの衝撃”から4年。自国開催となった1996年のアトランタ五輪では、コート外での大事件こそあったものの、豪華メンバーを揃えたアメリカ代表は他国を圧倒し金メダルを勝ち取った。しかしこの大会以降、アメリカに対するトニー・クーコッチの“ある予言”が的中してしまうことになった。

実力的には“初代”にも劣らない三代目ドリームチーム

 1992年のバルセロナ五輪で結成されたアメリカ男子バスケットボール代表は“ドリームチーム”と呼ばれ、世界中のバスケファンを熱狂させた。マイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)やマジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)、ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)ら、当時のNBA最高のスーパースターが勢揃いしたのだから、それも当然と言えるだろう。

 その2年後の1994年にも、世界選手権の代表チームとしてNBA選手が参加。だがこの“ドリームチーム2”は若手選手が中心で、バルセロナ五輪のメンバーが1人もいなかったため、話題性に欠けた。しかし、1996年のオリンピックは自国のアトランタが開催地とあって、再び最高レベルのプレーヤーたちが集結した。
  すでにバードは引退、4年のブランクを経て1995-96シーズン途中にカムバックしたマジックも、往年の力は失せていた。ジョーダンも早々に不参加を決め込んだが、それでもチャールズ・バークレー(当時フェニックス・サンズ)、デイビッド・ロビンソン(当時サンアントニオ・スパーズ)、スコッティ・ピッペン(当時ブルズ)、カール・マローン、ジョン・ストックトン(ともに当時ユタ・ジャズ)の5人がバルセロナに引き続いて参戦。さらに1994年のシーズンMVPアキーム・オラジュワン(当時ヒューストン・ロケッツ)も、ナイジェリア出身ではあったが1993年にアメリカ国籍を取得していたためチームに加わった。

 また、前回はアマチュア枠の有力候補でありながら、当時デューク大に所属していたクリスチャン・レイトナーにその座を譲ったシャキール・オニール(当時オーランド・マジック)も晴れてメンバー入り。オニールとレジー・ミラー(当時インディアナ・ペイサーズ)はドリームチーム2のメンバーでもあった。
  さらにグラント・ヒル(当時デトロイト・ピストンズ)、アンファニー・ハーダウェイ(当時マジック)ら新鋭スターたちが加わったドリームチーム3は、ネームバリューは別として、実力的には初代にも決して見劣りしないタレント集団になった。前回はピストンズのチャック・デイリーが務めたヘッドコーチ(HC)には、当時のNBA最多勝記録保持者だったレニー・ウィルケンズ(当時アトランタ・ホークス)が選ばれた。

 バルセロナで圧倒的な実力を見せつけたアメリカに勝てそうな国は、アトランタでも見当たらなかった。過去に2度金メダルに輝いていたソビエト連邦は1991年に崩壊し、その構成国としてソ連代表に選手を多数送り出していたリトアニアなどが離脱。1992年はロシアを中心とした独立国家共同体(CIS)が4位に食い込み、1994年の世界選手権でもロシアは銀メダルに輝いたが、同五輪の出場権は逃していた。

 リトアニアやクロアチア、ユーゴスラビアなど、東欧の強豪国にはNBAで活躍する選手もいた。だが、どこも対抗馬として推すには決め手に欠けており、アメリカの優勝を疑う声はほとんど聞かれなかった。
 圧倒的強さで勝ち進むも、コート外で思わぬ大事件が発生

 開会式ではアメリカ選手団のトリとして入場するなど、注目度抜群だったドリームチーム3は、7月20日の開幕戦でアルゼンチンに28点差をつけ快勝。続くアンゴラ戦も33点差、強敵リトアニアも22点差で下し、五輪のバスケットボール史上最多の観衆3万4417人が来場した中国戦は133−70と、予想通りの快進撃を続けていた。

 ところが、中国戦の終了後に思わぬ事件が発生する。彼らが宿泊していたホテル(選手村は利用していなかった)の目の前にあるオリンピック記念公園において、何者かが仕掛けた爆弾によって2名の命が奪われたのだ。

「ホテルが大きく揺れて、何が起こったかと思った。本当に恐ろしかったよ」(ミッチ・リッチモンド/当時サクラメント・キングス)。
  前年には168人が犠牲になるオクラホマシティ連邦ビル爆破事件があり、当時のアメリカ市民にとって爆弾テロは現実的な恐怖だった。この事件を受け、マローンは同行していた家族をユタの自宅へ帰している。

 それでも大会は続行され、予選ラウンド最終戦ではクロアチアを破り5戦全勝で決勝トーナメントへ。だが2日後の30日、今度はとうとうホテルに爆弾を仕掛けたとの電話がかけられた。

 結局は悪戯だったと判明したが、憤慨したバークレーは、「いいアイデアがある。残りの3試合を今日1日で片づけて、この街からおさらばするんだ。サマランチ(IOC)会長にそう進言するつもりさ」とまくし立てた。もちろんその“アイデア”は実行されなかったが、選手たちも危機感を覚えたのは事実だった。

 準々決勝はブラジルと対戦。同国の伝説的選手で、この大会の得点王(平均27.4点)となったオスカー・シュミットには26得点を奪われたが、98-75で問題なく勝利を収めた。ちなみに38歳のシュミットはこれが5度目の五輪で、3大会連続の得点王。通算1000得点を超えた、五輪史上唯一の選手となっている。
  オーストラリア相手の準決勝も楽々突破し、決勝はユーゴスラビアとの全勝対決となった。ユーゴの中心選手ブラデ・ディバッツ(当時レイカーズ)が「99.9%アメリカが勝つだろう」と弱気な発言をしていたのと裏腹に、ザルコ・パスパリらユーロリーグの実力者を揃えたユーゴは、前半に一時7点のリードを奪う。

 後半も最初の6分までは1点差と食い下がっていたが、地力の差は明らか。ロビンソンが28得点、ミラーも20得点を稼ぎ出し、アメリカが難なく金メダルを勝ち取った。

「今後の大会ではどうなるか……」クーコッチの予言は見事に的中

 決勝のハーフタイムでは、IOCがモハメド・アリに対して改めて金メダルを贈呈した。1960年のローマ五輪で頂点に立っていたアリ(当時の名はカシアス・クレイ)だが、のちにメダルを紛失(黒人差別に抗議して自ら廃棄したとも言われていたが、事実でないと否定)。この大会ではパーキンソン病に苦しみながらも聖火の最終点火者を務め、多くの人々に感動を与えていた。
  ドリームチームにとっても伝説のボクサーは偉大な存在であり、全員がアリに歩み寄って祝福の言葉をかけ、記念写真を撮影。今大会のどの試合よりも印象的なシーンであった。

 バルセロナ五輪での“初代ドリームチームの衝撃”からまだ4年。世界各国のバスケットボールのレベルは、まだアメリカに遠く及ばなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙が「オリンピックのバスケットボールは、半分が(アメリカによる)セミナー、もう半分はサーカス。競争は存在しない」と形容したように、アメリカの優位は当分揺るがないと思えた。
  だが、クロアチア代表のトニー・クーコッチ(当時ブルズ)は「アメリカと対戦し続けることで、ほかの国のレベルも上がっていく。何回か後のオリンピックでは、どうなっているかわからないよ」とコメント。その予想通り、4年後のシドニー五輪は全勝したとはいえ苦戦続き、そして2004年のアテネ五輪で、アメリカはついに王座から陥落する。クーコッチの予言は、おそらくは彼自身が予想していたよりも、早く現実のものとなるのであった。

文●出野哲也(フリーライター)

※『ダンクシュート』2020年5月号原稿に加筆、修正。

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