卓球を愛した水谷隼という男。最高のフィナーレを迎えた頼れる兄貴はレジェンドとして生き続ける

卓球を愛した水谷隼という男。最高のフィナーレを迎えた頼れる兄貴はレジェンドとして生き続ける

水谷は集大成として挑んだ東京五輪で混合ダブルスで金、団体戦で銅メダルと過去最高の成績を残した。(C)Getty Images

「卓球から完全に離れると思います」

 男子卓球の日本代表・水谷隼が現役引退を表明した。

 東京五輪では、卓球競技のスタートになった混合ダブルスで伊藤美誠と組み、中国を0-2からの逆転勝利を収め、日本卓球史上初の金メダルを獲得した。この歴史的な快挙がその後のシングルス、そして団体戦へと波及し、日本は女子シングルスで伊藤が銅メダル、女子団体戦で銀メダル、そして水谷が出場した男子団体戦で銅メダルを獲得した。

 水谷は、永らく日本の卓球界を支えてきた。

 17歳7か月で全日本選手権で優勝し、明大に進学しながらも欧州のドイツ1部リーグのデュッセルドルフに入団、自らの技術を磨いた。初の五輪挑戦となった2008年の北京五輪では団体戦に出場し、5位入賞した。2012年のロンドン五輪では世界ランキング5位で出場し、メダルの期待が高まったが4回戦で敗退。団体戦もメダルを逸した。大きなプレッシャーの中、結果が出なかったことに苦悩したが、2013年にロシアのプレミアリーグに行くなどして卓球を磨き、国際試合でタフに戦える選手に成長した。
  2016年のリオ五輪ではその経験を活かして男子シングルスで銅メダル、団体戦では銀メダルを獲得し、男子チームの中心となって活躍した。水谷にとっては、リオ五輪がキャリアハイとなり、東京五輪でこの上を目指すべく新たなスタートを切った。

 そんなエースに最大の試練が訪れる。

 2018年1月、目の不調を訴え、ボールが見えづらくなったのだ。

 近年、国際大会を始め国内でも大きな大会は演出が派手になり、スポットライトが当たる中で試合を行なう。水谷は、観客席が暗く、LED照明で明るく照らされた卓球台に視線をやると、その明るさが余計に眩しく感じ、高速で台上を行き来する白球がとらえにくくなる。実際、卓球のスマッシュの最高速度は、時速180kmと言われ、台上でのスピード感はテニスやバトミントンの比ではない。

 しかも今は高速卓球の時代と言われている。より正確に相手の動きと高速で動くボールの行方を判断するには、動体視力と視野の広さが求められる。水谷は、レーシック手術で視界の回復を試みたが、右眼について2回目の手術の踏み切った際、違和感が増していった。
  眼に問題を抱えた水谷の葛藤は想像に難くない。

 それ以降、特殊なコンタクトレンズを使用したが、細かいボールの動きが分かりづらくなり、使用をやめた。サングラスも試したが見えやすくなるが曇ったり、ズレたり、一長一短があり、根本的な問題解決には至らなかった。時間の経過とともに悪化する視力に直面し、水谷は卓球を続けることに迷いを生じたこともあったが、それでもラケットを置かなかった。

「視力が悪くなる中でも卓球をやり続けられたのは、オリンピックがすぐ目の前にあるから。そこでメダルを獲るチャンスがあるということが唯一の自分のモチベーションになっていました」

 2019年、眼の影響により、東京五輪が最後と心に決めた。

 そのシーズンの全日本選手権で2年ぶり10度目の優勝を果たすと、「今年で最後にしたい」と翌年の全日本選手権には出ないことを宣言した。

 東京五輪は、シングルスの出場こそ逃したが、団体戦と混合ダブルスの出場を決めた。大会が迫る中、眼科医を訪れて治療を進めると光明が見えた。コンタクトの使用よりも裸眼の方が見やすくなったのだ。また、「屋内LSD照明の眩しさをおさえたい」ということからSWANSのサングラスを使用した。サーブの時、上目で見ても、ラリーで大きな動きをしてズレなくなり、眩しさを抑え、白球をハッキリととらえられるようになった。水谷の視力は最後の舞台に向けて、こうして整えられていった。
  東京五輪、卓球競技のスタートとなる混合ダブルスでは、これまでにない水谷を見せた。ドイツ戦、3-3で迎えた第7ゲーム、水谷と伊藤は6-10とマッチポイントを握られた。そこから驚異の粘りを見せて16-14で勝った。決勝の中国戦では、0-2のセットカウントから大逆転を演じ、金メダルを獲得した。

「水谷選手がいたから勝てました」

 ペアの伊藤は、そう語ったが、東京五輪での水谷の姿勢は、これまでにないものだった。伊藤曰く、いつもの水谷は劣勢になるとしょんぼりしたり、下を向くことが多かったが、今大会はいつも前を向いて、「いけるぞ。大丈夫だ」と前向きな言葉を発していたという。試合で追いつめられた伊藤が下を向きかけたことがあったが、水谷のポジティブな声掛けで奮起することができた。
  そういう水谷の前向きな姿勢は、男子団体戦でも見て取れた。

 ダブルスを組んだ丹羽孝希がミスしても「大丈夫、思い切っていこう」とずっと声をかけつづけた。丹羽はその言葉に救われ、ミスを恐れることなく、積極的に戦うことができたという。

 張本智和にとって水谷は精神的な支柱であり、頼れる兄貴だった。

 男子団体戦のブロンズメダルマッチで水谷が勝って、銅メダルを獲得した時、コーチベンチから最初に飛び出したのは張本だった。水谷は「あまり気づかなかった」と笑い飛ばしていたが、そこに二人の関係性が読み取れた。

 水谷は、混合ダブルスで金メダル、男子団体戦で銅メダルを獲得してキャリアハイを実現し、自らの仕事をまっとうした。

「東京で五輪が開催されると決まってから集大成だと思って一生懸命ずっとやってきた。そこで最高の結果を残せて良かった」

 そう語る表情は、やりきった感があり、すっきりしていた。
  一方で、卓球バカを自認する水谷は、悔しさも噛みしめていた。

「もし目が完治するなら40歳でも50歳でもやりたいと思っています。でも、治療法はないということで、悔しいですけど、自分の冒険はここまでかなと思う」

 水谷のこの思いを聞いた張本と丹羽は何を感じただろうか。

 張本は、今後、水谷不在の男子卓球界で名実ともにトップ選手として走り続けることが求められることになる。それが水谷に対する恩返しになる。

 有形無形の財産を日本卓球界に残して、水谷がラケットを置く。

 ただ、その姿は、これからも長く人の記憶に残るだろう。少なくとも今回の混合ダブルスの金メダルでこれから五輪の度に、その姿を画面で見ることができるはずだ。どのスポーツも最初に頂上を踏破した選手は永遠に語り継がれ、レジェンドとして生き続けることになる。

 水谷は、そういう選手に昇華した。

文●佐藤俊(スポーツライター)

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