「そこらの打者には打たれっこない」上野由岐子が東京五輪で見せつけた20年越しの“本気”

「そこらの打者には打たれっこない」上野由岐子が東京五輪で見せつけた20年越しの“本気”

今夏の東京五輪で悲願の金メダルを掴んだ上野。その圧巻のピッチングに隠された姿に迫った。(C)Getty Images

東京五輪で13年越しの金メダル獲得の興奮がいまだ醒めやらぬ中、9月4日、日本リーグの後期シーズンが開幕する女子ソフトボール。いまや世界に誇るレジェンドとなったエース上野由岐子の若き日を取材してきた記者が、不死鳥エースの実像を書き記した――

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 上野由岐子はいつも、自分の心の奥にある“本気”のスイッチを押す方法を探している。

 そんな面白くも、難解な彼女の性格を初めて垣間見たのは、現在まで236勝という前人未踏の勝ち星を積み重ねてきた日本リーグで、記念すべき1勝目を挙げた試合だった。

 2001年4月28日、長野県営伊那野球場で開催されたシーズン開幕戦。前年のシドニー五輪銀メダルによる一過性のブームと、大型連休初日という日柄の良さが重なり、会場は駆けつけたファンの熱気に包まれていた。日立高崎(現・ビックカメラ高崎)を率いる宇津木妙子監督は、そんな注目の舞台に、大胆にも噂の大物ルーキーを先発起用する。

 宇津木監督に「よし、行ってこい!」とベンチから送り出されて、マウンドに向かった上野。この時に浮かべた少し硬い表情は緊張の表れかと思いきや、じつはまったく違うメンタリティーだったのだと、私は後に知らされることになる。

 上野はおよそルーキーとは思えない力強い投球を見せた。試合序盤、一人の走者も出さずに相手打線を抑え込んでいく。中盤に初ヒットを許したが、表情を変えずに淡々と投げ続け、自らのデビュー戦を初勝利で飾った。この時点で、すでに彼女のボールは、日本リーグのレギュラー選手の打力を凌駕していた。

 大記録が生まれる試合には独特の空気があるものだ。「あと何人」というカウントダウンが始まるよりも前の段階で記録は途絶えてしまったが、この試合にはそれがあった。
  試合後、「(完全試合)行くかと思ったよ」と声を掛けると、上野はニンマリと笑いながら「いやー、ひそかに狙ってたんですけどね」と言った。その表情は「悔しい」というよりも、「失敗しちゃったな」と舌打ちするような小笑い。そこにあったのは、18歳の怪物少女の恐るべき素顔だった。上野は“本気”だったのだ。

 当時、入団間もない頃の上野に、話を聞く機会があった。

 小学校時代から快速球投手として注目を集めた上野は、九州女子高校(現・福岡大附属若葉高校)2年生の時、『世界女子ジュニア選手権』(20歳以下の世界大会)に高校生で唯一代表入り。チームを優勝に導く活躍を見せた。おのずと学校の友人や同世代の選手たちからは、「上野は特別」と言われるようになっていく。

 確かに特別ではある。それは間違いない。ソフトボールの実力だけでなく、器用さと抜群の運動能力の高さから、何をやらせても高いレベルでこなしてしまう。ただ、上野の中では何事もステップを踏んで、努力して出来るようになっているものという意識がある。それを「上野だから」と纏められてしまうのには、もどかしさがあった。

「『こんなことが出来るんだ』じゃなくて、『さすが』とか『やっぱり上野だから』という反応。そりゃーもちろん嬉しいんですけどね。あぁー、そうなっちゃうのねって複雑な気持ちでした」

 それだけに自分の影響力の強さも自覚していた。感情のままの言動や行動で何かを発信すれば、そこにハレーションが生まれる。次第に周囲との調和に気を使うようになり、“本気”を押し隠すようになっていった。
  先述の『世界ジュニア』の代表チームのエースで、シドニー五輪日本代表としても活躍した増淵まり子(現・淑徳大学監督)は、3学年下でチーム最年少だった上野を、「向こうから話しかけてくるようなことはあまりなかったけど、よく周りを見ている。頭の良い子だなと思いました」と当時の印象を語る。

 その反面、周囲からの期待に応えようとするサービス精神、妙な責任感も持ち合わせていた。シドニー五輪の代表入りも囁かれ始めた高校3年の春、あろうことか学校の体育の授業中に、走り幅跳びの背面跳びでマットが敷かれていない地面に落ちて腰を骨折してしまう。当然、五輪出場の可能性も消えた。

「あれも、みんなに『上野なら行けるよ』みたいに言われて、『よっしゃー、やってやるか』みたいな感じでした。本当だったら自重しなきゃいけない時期なんです。完全に調子乗ってました」と上野は笑った。

 上野が周囲に欲していたのは、“驚き”だった。マウンド上でのパフォーマンスは、カドの立たない自己主張であり、驚く周囲に対して、「フフフ」と胸の内でほくそ笑む。そういう天邪鬼な一面を持っている。だからこそ、デビュー戦で完全試合というサプライズを平然と狙っていたのだろう。

 完全試合デビューの野望は潰えたが、ルーキーシーズンの2001年、日本リーグで2度の完全試合を、それも史上初の2試合連続というおまけ付きで達成。あっという間に所属チームだけでなく、日本代表でも主力を担う存在となった。
  そして、五輪予選も兼ねた2002年の『世界ソフトボール選手権』(カナダ)。決勝トーナメントの「勝てば五輪出場権獲得」という中国との一戦に先発し、ここでも完全試合を達成。見事にアテネ五輪への出場を決めている。

 しかし、自身初めてのオリンピックとなった2004年のアテネ五輪では挫折を経験する。

 オーストラリアとの開幕戦で先発を任されたが、まさかの途中降板で敗戦投手に。その後も発熱などで体調を崩し、大会を通して調子が上がらない。そして最後の試合となった決勝進出を懸けたオーストラリア戦では、リリーフで待機していながらピンチの場面でも登板の声が掛からず。ゲームセットの瞬間をブルペンの金網越しに見つめていた。

 活躍を期待されながら裏切る結果になったが、そんな苦闘の中でも、敗れれば予選リーグ敗退が決まる大事な中国戦に先発し、五輪史上初となる完全試合を達成。チームの危機を救う快投を見せている。これは意地が引き出した「本気」だったのか……。

 上野は後に、このアテネ五輪の最後の場面での心境を「監督にまだ信頼しきってもらえてなかったんだなという自分への悔しさ」と振り返っている。ただ、その「悔しさ」が、そこから次の五輪までの4年間の原動力となった。
  アテネ五輪後、まだ二十代前半ながら「日本のエース」と呼ばれる立場になった。もはや日本リーグでは敵なしの突出した存在であり、04年、05年に1度ずつと、06年には2度の完全試合。07年には日本人史上初の1000奪三振も達成している。もっとも、そうした記録に本人はあまり関心がなくなっていた。

 当時のソフトボール界の世界情勢は、日本とアメリカの2強時代。「五輪での金メダル=打倒アメリカ」と言えるほど、世界一を目指す日本の前に、常に立ち塞がってきたのがアメリカだった。この宿敵の強力打線をどう抑えるかが、上野にとっても大きなテーマだった。

 現役時代に日本代表で上野と一緒にプレーした経験を持ち、現在は岩手県の高校で教員を務める藤原麻起子(元・日立ソフトウェア)からは、こんな話を聞いたことがある。

「上野さんは、国内のリーグと世界大会ではピッチングをまったく変えている。間合いひとつ取っても全然違っていますから」

 間合いが変わるということは、それだけ打者と駆け引きをしているという証だ。打者を観察し、打ち取るための組み立てを常に考えて投げているのだ。

 国内の試合ではストレート主体でポンポンと投げ込み、それで打たれることがあっても、ピンチになったらギアを上げれば失点までには至らない。だから、不用意な一球を痛打されることはあっても、連打で「打ち崩される」場面はほとんどなかった。スイッチが入るのは、パワーのある外国人選手か代表クラスの強打者くらい。本人も「本気で投げたらそこらの打者には打たれっこない、って思ってますから」とはっきり口にしている。
  シーズン最後の優勝決定戦でもなければ、目先の試合の勝利にこだわりもない。極論すれば、それはオリンピックに向けてのテストの場でしかなかった。「こういうボールを投げたら打つんだな」と、打たれた後にマウンドで頷くシーンもよくあった。すべては「本番」である北京五輪からの逆算だった。

 そして、迎えた北京五輪での「上野の413球」と呼ばれる快投。決勝トーナメント2日間3試合を一人で投げ抜き、宿敵・アメリカを撃破。金メダルを獲得する。

「最後は何があっても自分が全部投げるものだと思っていた。逆に自分じゃなかったら納得できなかった」

 上野はそう言う。圧倒的な力で相手をねじ伏せるだけでなく、先に点を取られても味方の反撃を信じて粘り強く投げ続ける。ピンチの場面ではプライドを捨てて敬遠策を取っても失点を防ぐ。しゃにむに勝ちに行く、今までとは違う“本気”の姿だった。

 この大会を最後に、ソフトボールは五輪種目から除外される。

 金メダルの直後には、逃げ出したいほど殺到していた取材は次第に減っていき、日本リーグの会場からは年々熱気が失われていった。目標を失った中でのプレー。「正直、いつ引退してもいいと思っているんです。でも、やめる理由がなないから続けています」と真顔で言うこともあった。
  そんな上野の気持ちをつなぎ止めていたのは、「とにかく(現役を)続けなさい。あなたは続けることに意味がある」と、やめることを許さなかった宇津木麗華の存在だった。

 宇津木妙子に代わって所属チームの指揮を執っていた麗華は、上野にバッティングとの二刀流に挑戦させるだけでなく、コーチとして若い選手への指導もさせた。ときにはチームの勝敗を度外視しても上野に刺激を与え続けた。

「今は、いかに楽しむかを追い求めています」と話していた。そんな上野が、北京五輪の4年後、同大会での名場面を再現するような快投を披露したのは、意外と知られていない。

 2012年の夏、ロンドン五輪の開幕直前にカナダで開催された『世界選手権』。上野は決勝トーナメントの3日間で4連投、球数にして435球。数字の上では北京五輪を上回る力投を見せている。

 オリンピックがなくなり、世界選手権はソフトボール界最高峰の大会になる。この大会7連覇中で、北京のリベンジを狙うアメリカを日本は決勝戦で返り討ちにし、じつに42年ぶりとなる優勝を果たした。

 この激闘を上野は「あそこまで自分に火が付くとは、想定外でした」と振り返る。

「オリンピックが始まる前に、『私たちも頑張ってるよ』というアピールもしたかったし、オリンピックの金メダリストとして、ここでまた米国に負けるわけにはいかないと思って必死に投げていました。そしたら久々に一杯一杯になって、『もう無理かな。でもここで踏ん張らなきゃ』って。そういう苦しさがすごく楽しかった」

 そして、止まっていた歴史がまた動き始めた。2016年8月、東京五輪でソフトボールの復帰が正式に決まった。喜びのコメントを発表しながらも、上野はこんな本音も口にしていた。

「日本のソフトボール界にとっては良いことだけど、私個人としては、自分がオリンピックに出なくてもべつに構わないと思っている。ただ、もし出るのなら、やらなくてはいけないことがあるんで」
  上野は「『誰かのために頑張る』という思いが今の自分の原動力」と言った。「誰か」とは自分の現役生活を支え続けてくれた宇津木麗華であり、代表監督となった彼女と共に闘い金メダルを勝ち取ることが最大の恩返しになる。東京五輪をそのための場所と位置づけていた。

 迎えた東京五輪決勝、アメリカ戦。

 先発した上野は立ち上がりから制球に苦しみながらも、なんとかピンチを切り抜け失点を許さない。しかし2対0とリードした6回裏にピンチを招き、リリーフの後藤希友にマウンドを譲り降板する。そして後藤が6回を投げきると、続く最終回の7回裏、宇津木麗華監督はリエントリー(再登板)で再び上野をマウンドに送り出す。

 少し硬い表情でマウンドに向かって歩を進める上野。それは、あの20年前のデビュー戦の時と同じ、緊張ではなく、本気モードのスイッチが入った時の表情だった。

 最後の打者をキャッチャーフライに打ち取ると、上野は安堵の笑顔を見せた。

 あの決勝戦から1か月。9月4日、日本リーグが再開される。オリンピック以来となるマウンドで、上野はどんな「本気」の姿を見せてくれるのだろう。

―――後編に続く―――

取材・文●矢崎良一

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