上野由岐子は実は“剛速球投手”ではなかった!? 五輪決勝で見せた「上野ボール」に隠されたもう一つの顔

上野由岐子は実は“剛速球投手”ではなかった!? 五輪決勝で見せた「上野ボール」に隠されたもう一つの顔

年を重ねるごとにグレードアップする上野の速球。一方で変化球も世界屈指のレベルへと進化を遂げていた。(C)Getty Images

女子ソフトボール界のレジェンド、日本代表のエースである上野由岐子といえば、誰もが“剛速球投手”というイメージを持っている。

 もちろん、それは間違ってはいない。39歳になった今も、彼女が世界最速クラスのスピードボールを投げるのは紛れもない事実だ。しかし、今夏の東京五輪、アメリカとの決勝戦のピッチングを振り返ると、“もう一人の上野由岐子”が見えてくる。

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 上野の国際試合デビュー戦となったのは、1999年の『世界女子ジュニア選手権』(現・U-19女子ソフトボール・ワールドカップ)。この大会で、19歳以下の日本代表は、アメリカ、中国などの強豪を撃破し優勝。フル代表に先駆けて、世界一に輝いている。

 高校生として唯一代表に選ばれた上野は、ストレートがMAX107キロを記録。海外の関係者から「オリエンタル・エクスプレス」と称され、当時の日本には珍しい速球投手の出現は世界を驚かせた。

 その後、上野の球速は年々アップし、2010年の『広州(中国)アジア大会』で121キロを計測。これは国際大会における女子の世界最速記録と言われている。そして今夏の東京五輪でも、予選リーグのカナダ戦で相手打者の金属バットをへし折るなど、その球威はいまだ健在だ。

 そして上野は、球速のアップと同時に、違う形でも投手としてグレードアップしてきた。それは変化球の進化だ。

 五輪後に出演したバラエティー番組で、上野は変化球の球種を聞かれ、「7~8種類」と答えている。これは一般的な投手の中でもかなり多く、ましてスバ抜けたスピードボールという武器があるだけに意外にも思える。
  さらに驚くべきは、そのほとんどは国内の試合では使われないという点だ。

 このコラムの前編で、上野が日本リーグと国際試合でピッチングをがらりと変えていると証言してくれた元日本代表の藤原麻起子(現・岩手県教員)は、「国内ではほぼストレート主体。それが外国人相手になるとストレートの比率が極端に低くなる」と言う。

 つまり豊富な変化球の多くは、国際試合で、それも最後の金メダルを争う大一番で勝つための秘密兵器として隠されている。

 たしかに日本リーグなどの国内の試合における上野は、ストレートを中心にピッチングを組み立て、チェンジアップやドロップといったオーソドックスな変化球を交えて打者を打ち取っている。それがオリンピックなどの大舞台になると、逆にストレートはほとんどなくなり、変化球が中心の配球になってくる。その象徴が、今夏のアメリカとの決勝戦だった。

 前述のバラエティー番組で、上野はアメリカ戦のピッチングについて、「試合前半は投球フォームが決まらず、イニングごとにフォームを変えて投げていた」とも語っている。

 そんな状態で、上野はリスクの少ない外角の変化球を多めに使い、慎重に配球を組み立てていた。おのずとボールが先行し、球数も増えてくる。どこか不安を感じさせる立ち上がりに、テレビ解説の宇津木妙子元日本代表監督も、「もっと思い切って攻めてもいいのでは」と首を傾げたほどだったが、上野は自分の決めたスタイルを貫き、結局、アメリカ打線を無失点に抑え、日本に金メダルをもたらした。
  この上野のピッチングの変化であり進化は、ソフトボール界の情勢の変化による影響もあるようだ。

 日本が銀メダルを獲得し女子ソフトボールが国内で脚光を浴びるきっかけになった2000年のシドニー五輪。この翌年に上野は高校を卒業し、日立高崎(現・ビックカメラ高崎)に入団。日本代表としてのキャリアも、そこからスタートさせている。

 当時、マウンドからホームまでの距離は40フィート(12.19メートル)だった。この距離だと、100キロのストレートは、打席での体感速度が160キロを超える。打者は対応が難しく、好投手同士の投げ合いになれば、なかなか得点が入らない。とくに国際試合では、7回で決着が付かず、0-0のまま延々と延長戦が続くこともよくあった。

 それがシドニー五輪後の2002年、ドラスティックなルール改正によって一変する。

 極端な投手優位の状況を変え、得点が入り、見る人が試合展開を楽しめるようにするために、ホームまでの距離を43フィート(13.11メートル)に延長。その分、外野フェンスまでの距離が200フィート(60.96メートル)から220フィート(67.06メートル)に広がった。

 投手にとっては酷なルール改正であったのは言うまでもない。単純に言えば、約1メートル、ボールを見られる時間が増えたため、これまで空振りを取れていたストレートがファウルになり、変化球はコースを見極められやすくなる。

 このルール改正により、大きなダメージを受けたといわれるのが、当時、日本代表の主力として活躍していた増淵まり子、高山樹里といった投手陣だ。
  彼女たちはストレートの球速では上野に劣るが、ライズボールを駆使した縦の変化を主武器にしていた。この生命線となるボールが威力を失ってしまうと、投球の組み立てが難しくなってくる。ただ、問題は投球距離以外のところにもあった。増淵(現・淑徳大学監督)は、「私の場合は、距離よりも、ボールが変わったことの影響が大きかった」と言う。

 このときのルール改正では、投球距離の延長と同時に、公式戦での使用球が、それまでの白いゴムのボールから、黄色い皮ボールに移行している。硬さも縫い目の触感もかなり違う。ライズボールは指先の感覚が重要となる変化球のため、微妙なコントロールを取り戻すのに苦労があったようだ。

 その点、肘の操作で投げるドロップやチェンジアップは、落とす角度を調整しやすい。上野もライズは投げていたが、当時はむしろチェンジアップの制球に優れ、スピードボールとの緩急を使って打者を打ち取っていた。それゆえ、距離延長やボール変更の影響は比較的少なかったのかもしれない。

 また、もうひとつ見逃せないのが、バットの性能の向上だ。ソフトボールは金属バットを使用するが、メーカーの研究開発により、どんどん反発係数が向上。飛躍的に打球が飛ぶようになっていった。

 その影響を強く感じさせたのが、2008年の北京五輪。アメリカの4番に座ったクリストル・ブストスという巨漢のスラッガーだ。ブストスは同大会で6本塁打(五輪タイ記録)。日本との決勝戦でも、球威の面では全盛期にあった上野から、外角球を拾ってスタンドに運ぶホームランを打っている。

 上野の力をもってしても、このクラスの打者にしっかりミートされてしまえば、そうなってしまう。こうしたいくつかの要素が重なり、年々打者優位の図式が進んだ。そのなかで、上野は世界との戦いを強いられてきた。

 そのための武器が“変化球”だった。
  初めて出場した2004年のアテネ五輪以来、国際大会でアメリカの前に苦杯をなめ続けてきた上野にとって、五輪種目からの除外が決まり、当時は「最後の五輪」と位置づけられた北京五輪は、金メダル獲得が使命となっていた。

 その打倒アメリカのための“秘密兵器”が、新たな変化球である“シュート”だった。

 この球を、当時、所属チームの監督だった宇津木麗華(現・日本代表監督)から奨められた上野は、オフの期間を利用して渡米。アメリカ人コーチからの指導を受けてマスターした。そこから練習で精度を磨いていったのだが、データを取らせないため、試合で使うことはなかった。

 隠し続けた秘密兵器を繰り出したのが、アメリカとの決勝戦。2-1と1点をリードした終盤6回裏の、一死満塁という絶体絶命の場面だった。ここで上野はシュートを解禁。2人の打者を狙い通りの内野フライに打ち取り、無失点で切り抜け、勝利を引き寄せた。

 それまでチェンジアップ、ライズ、ドロップと、縦の変化と緩急で勝負してきた上野が、初めて使う横の変化球。この新しい球種が加わり、まさに3Dのピッチングとなった。

 そして13年後に復活した東京五輪でも、どうやら秘密兵器は用意されていたようだ。増淵が興味深く振り返る1球がある。

 アメリカとの決勝戦の初回。走者を三塁に置いて、上野の投球がショートバウンドとなり、捕手が捕り損ねる。本塁に突入した走者を間一髪でアウトにし、失点を免れた場面があった。あの1球だ。

「テレビで見ていたのですが、あのボールは、ナックルの握りでした」と増淵は言う。
 「オリンピックに臨むために、必ず新しいボールをマスターしていると思っていたので、『いつ出してくるのかな?』と見ていました。それで『あ~、これか!』と。予選リーグでは投げていなかったボールです。隠していたんでしょうね。

 でも、握りはナックルでも、投げ方はナックルではなかった。だから私は“上野ボール”と勝手に名付けているのですが(笑)。ストレートよりも遅くて、チェンジアップよりも速いボールをイメージしていたのではないでしょうか」

 ソフトボールでは、ナックルの握りから、指先の操作次第でカーブやドロップのような変化をさせられるという。ただ、この“上野ボール”が、ナックルをベースにした独自の変化球だとして、そもそもナックル自体、今の日本では投げられる投手がほとんどいない、特殊な変化球だ。上野はどこでこのボールと出会い、習得したのだろうか?

 ここで1人の名前が挙がる。2000年シドニー五輪代表の藤井由宮子という投手だ。2001年に現役を引退している彼女だが、ドロップやチェンジアップなど精度の高い変化球を武器に活躍。その球種の一つにナックルがあった。

 藤井は当時の日立高崎のエースで、上野が入団した年に、1年間だけ一緒にプレーしている。そして、チームの選手寮では相部屋で、新人だった上野の教育係のような立場にあった。それならば、どこかで伝授されていた可能性がある。

 しかし、藤井に尋ねると「いや~、教えた記憶はないですね」と言う。ただ、新しい球種を身につけたいという意識は常に持っていたという。

「やっぱり世界で勝つためには、いろんな武器が必要ですから。聞いたことはやってみる子で、ドロップやチェンジアップなら話したことがあります。でも、ナックルはないなぁ。一緒に練習していて見てはいたと思いますが……。私よりも、宇津木麗華さんが、そういう新しいボール(変化球)が好きで、研究心の旺盛な人だったんで、上野も一緒にやっていて、影響を受けたのではないでしょうか」

 そして“あの1球”についても、「私が見る限りでは、ナックルとは違う気がします。何か変化球の掛け損ないだったと思うのですが、チェンジアップとも違う、さらに抜いた緩いボールを投げようとして、それが不規則に変化したのでは」と話した。

 おそらく“あの1球”の正体は、本人に聞かなくては答は出ない。ただ、実際に聞いても事実は教えてくれないだろうし、まして本当のことを言う必要もない。正体がわからない以上、まだ秘密兵器のままだ。そして、いつかまた国際大会で、勝負どころで使う時が来るかもしれないのだから。
  東京五輪では、上野が日本リーグでデビューした2001年に生まれた20歳の後藤希友(トヨタ自動車)が、日本代表の次の時代を担うエース候補として台頭した。左腕からのMAX113キロのストレートは、無限の可能性を体現している。それでもまだ、早急な世代交代を求めるのは酷に思えてしまう。これまでも「ポスト上野」と呼ばれる逸材はいたが、誰も上野を超えるどころか、並走すらも出来なかった。

 見方を変えると、上野は、もう20年も日本のエースであり続けていることになる。

 金メダル獲得を手放しで喜ぶ年配の関係者を尻目に、現場で強化や普及に取り組んでいる若手の指導者たちは、そうした状況に危機感を募らせている。

「(上野は)まず身体のサイズやポテンシャルからして凄い。そこに技術や心の部分も高いレベルで備わっている。あれだけの逸材はスポーツ界全体を見てもなかなかいないわけで、それがソフトボールにいてくれたことが奇跡みたいなものですから。そう考えたら、後継者なんて、簡単に出て来るわけがないんです。上野が頑張ってくれているうちに、分母(競技者人口)を増やす努力をしていかないと」
  13年ぶりの金メダルを置き土産に、再び五輪競技から除外されるソフトボール。それでも、2028年のロサンゼルス五輪は、ソフトボール王国アメリカでの開催だけに再び復活の気運も生まれている。

 東京五輪を花道に引退も囁かれていた上野だが、再開した日本リーグではオリンピックの疲れも見せずに登板を果たし、元気な姿を見せている。また最近は、ロス五輪を目指したい思いも口にするようになった。

 もしそれが実現したら、そのとき上野は46歳。さすがにバットをへし折るような剛速球は無理かもしれないが、多彩な変化球を操りながら、世界の強打者を次々に翻弄していく姿を想像すると、それはそれでロマンがある。レジェンドの今後から目が離せない。

取材・文●矢崎良一

上野コラム前編:「そこらの打者には打たれっこない」上野由岐子が東京五輪で見せつけた20年越しの“本気”

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