「彼にもこの場にいてほしかった」引退会見でガソルが涙を堪え語った、自身のキャリアと盟友コビーへの思い<DUNKSHOOT>

「彼にもこの場にいてほしかった」引退会見でガソルが涙を堪え語った、自身のキャリアと盟友コビーへの思い<DUNKSHOOT>

現役生活に終止符を打ったガソル。引退会見では、こみ上げる思いから時折言葉を詰まらせる場面もあった。(C)Getty Images

現地時間10月5日、パウ・ガソルがプロキャリアに終止符を打つと発表した。

 9月下旬、“ガソルがこの日にバルセロナで記者会見を開く”という情報が出回ると「ついにその日がきたか……」と、それが引退発表であるのはある程度予測されていた。だが、いざ正式な形になった時には、バスケ界は“お疲れ様”という労いの思いとともに、独特なキャラクターを持ったこのビッグマンがコートからいなくなる寂しさに包まれた。

「ケガが理由ではなく、“プレーを楽しめている時に辞めたい”というのが私の願いだった。それを実現させてくれたすべての人々に感謝したい」

 そうスーツ姿であいさつしたガソルは、地元バルセロナで18歳でプロキャリアをスタート。21歳の誕生日目前で迎えた2001年のNBAドラフトで、アトランタ・ホークスから3位指名を受けると、直後にメンフィス・グリズリーズへトレードされ、デビューを果たした。
  以来、2018−19シーズンまで18年間、5球団(グリズリーズ、ロサンゼルス・レイカーズ、シカゴ・ブルズ、サンアントニオ・スパーズ、ミルウォーキー・バックス)でプレー。キャリアのハイライトは、2008年から6シーズン在籍し、2009、10年と2度チャンピオンタイトルを獲得したレイカーズ時代だろう。

 そしてバックス在籍中の2018−19シーズンに、左足首の疲労骨折が悪化。3月10日のスパーズ戦が、NBAでの最後の試合になった。

 2019年5月にその左足首を手術をした後、治療に専念していた38歳の彼の頭には“引退”の文字もよぎったが、そんなガソルの復帰のモチベーションとなっていたのが東京五輪出場だった。

 開催が1年延期になったのは、彼にとっては好都合だったかもしれない。今年2月、本人も「まったく想定外だった」という古巣バルセロナ復帰が実現し、本戦まで試合に向けたコンディション作りができる状況が整った。

 そしてそれは、16歳で入団したキャリアの原点に戻るという美しいシナリオでもあった。
 「この数か月は、自分のキャリアのなかでも最高の瞬間だった」

 引退会見の席でガソルはそう語ったが、16試合に出場したACBリーグで平均10.4点、5リバウンド、フィールドゴール成功率63.6%、3ポイント成功率45.8%をマーク。この数字は、短いプレータイムでも素晴らしい効率で仕事をしていたことを表わしている。

 そして今年7月、念願だった東京オリンピック出場が実現した。

 初めてシニア代表として出場した、2001年のユーロバスケットから20年。「メダルは獲れなかったけれど、家族のような仲間たちとともに戦えたことだけで、すでに大きな成功だった」とガソルは大会を振り返った。
  同じさいたまスーパーアリーナで戦った2006年の世界選手権(現ワールドカップ)では、アルゼンチンとの準決勝で19得点、11リバウンド、3ブロックと獅子奮迅の活躍を披露。しかし試合終盤、左足の第5中足骨を骨折し、退場するというアクシデントもあった。

 チームメイトの肩を借り、泣きながらコートを去るガソルの姿は印象的だったが、2日後の決勝戦でスペイン代表のメンバーは「パウのためになんとしてでも金メダルを獲る!」と誓い、準決勝でアメリカを破ったギリシャを70−42で下して見事金メダルを獲得。大会MVPにはガソルが選出された。その思い出の場所が彼の現役最後の舞台となったのは、ドラマチックな巡り合わせだ。

 ガソルの引退会見には、バルセロナで国内2冠を達成した2000−01 シーズンのチームメイトで、現在チームのヘッドコーチを務めるサルーナス・ヤシケビシャスと、スペイン代表や、短い期間だったがグリズリーズでも共闘した盟友フアン・カルロス・ナバーロも同席。この席で、ガソルは親愛なる元チームメイト、コビー・ブライアントにもメッセージを贈った。

「彼にもこの場にいてほしかったけれど……」と口にしたところで、涙がこみ上げ、言葉を詰まらせたガソル。

「彼は私に、良きリーダー、良きコンペティターであるにはどうすればいいか、そして、勝者であることの本当の意味を教えてくれた。ありがとう、コビー」
  レイカーズはこの日、ガソルがつけていた背番号16を永久欠番にすることを発表。レイカーズでは11人目の欠番化であり、ヨーロッパ出身の選手としてはドラゼン・ペトロビッチ(ニュージャージー/現ブルックリン・ネッツ)、ペジャ・ストヤコビッチ(サクラメント・キングス)、ブラデ・ディバッツ(キングス)、トニー・パーカー(スパーズ)、ジードルナス・イルガスカス(クリーブランド・キャバリアーズ)、ダーク・ノビツキー(ダラス・マーベリックス)の6人しかいない栄誉だ。

 新人王獲得に始まった彼のNBAキャリアは、通算1226試合出場し平均17.0点、9.2リバウンドという数字を記録。2009、10年に2度の優勝を味わい、オールスターにも6回(2006、09〜11、15、16)選出された。

 スペイン代表としては、世界選手権優勝(2006)、ユーロバスケットも3度制覇(2009、11、15)。オリンピックでアメリカとの決勝戦に打ち勝つことはできなかったが、2008年の北京と2012年のロンドンで銀メダルに輝き、2012年大会の開会式ではスペインの旗手も務めた。
  コート上では獅子のような激しい表情も見せたが、サイズやパワーだけに頼らない、洗練されたテクニカルなプレーが特徴だった。そしていったんコートを離れれば、ガソルは実にエレガントで上品な紳士だ。

『ダンクシュート』でその昔インタビューをお願いした時には、アメリカから、メールで応答してくれた。メールだと、本当に本人が答えてくれるのかと少々不安だったが、広報担当者が「パウにはその心配はいりませんよ。彼はしっかり答えますから」というのでお願いしたら、本当に、想像以上に丁寧な回答が返ってきてびっくりした。

 その少し後、代表戦でスペインに戻ってきた彼にインタビューのお礼を言うと、「こちらこそありがとう。ところで内容は大丈夫だった? 日本の読者のみんなが楽しんでくれると嬉しいよ」と、逆にお礼を返してくれるような丁寧な人だった。

 黄金時代のスペイン代表は、天才肌のナバーロ、ファンのお気に入りだったホセ・カルデロン(元トロント・ラプターズほか)、やんちゃなルディ・フェルナンデス(元ポートランド・トレイルブレザーズほか)、ワイルドな現スペインバスケ協会会長ホルヘ・ガルバホサ(元ラプターズ)と個性派揃いだったが、そんな彼らをまるごと包み込む包容力とリーダーシップでチームをまとめていたのが、パウだったのだ。
  引退後については「少し前からいろいろ考え、準備もしていた」とのことで、弟マルクとともに立ち上げたガソル財団の運営や、国際オリンピック委員会の選手委員、スペインスポーツ諮問委員会メンバー、ユニセフ親善大使など、現役時代から携わっていたコート外での活動により一層力を入れていくと話している。

「これからは、自分に多くのものを与えてくれたこの競技に恩返しをする活動をしていきたい」
  両親が医療従事者だったため子どもの頃から医学に関心があり、バルセロナ大の医学部にも進学していた彼は(バスケを優先させたため1年で中退)、医学方面の活動にも関心があるようだ。

 先月のルイス・スコラ(元ヒューストン・ロケッツほか)に続き、バスケ界のレジェンドが相次いでコートを去ったのは悲しいが、2人のラストマッチの舞台が日本であったことは、なんだかとても感慨深い。

文●小川由紀子

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